き》にゴム靴をはいた請負師《うけおいし》らしい男の通った後《あと》、暫《しばら》くしてから、蝙蝠傘《こうもりがさ》と小包を提げた貧し気《げ》な女房が日和下駄《ひよりげた》で色気もなく砂を蹴立《けた》てて大股《おおまた》に歩いて行った。もういくら待っても人通りはない。長吉は詮方《せんかた》なく疲れた眼を河の方に移した。河面《かわづら》は先刻《さっき》よりも一体に明《あかる》くなり気味悪い雲の峯は影もなく消えている。長吉はその時|長命寺辺《ちょうめいじへん》の堤の上の木立から、他分《たぶん》旧暦七月の満月であろう、赤味を帯びた大きな月の昇りかけているのを認めた。空は鏡のように明《あかる》いのでそれを遮《さえぎ》る堤と木立はますます黒く、星は宵の明星の唯《たっ》た一つ見えるばかりでその他《た》は尽《ことごと》く余りに明い空の光に掻き消され、横ざまに長く棚曳《たなび》く雲のちぎれが銀色に透通《すきとお》って輝いている。見る見る中《うち》満月が木立を離れるに従い河岸《かわぎし》の夜露をあびた瓦《かわら》屋根や、水に湿《ぬ》れた棒杭《ぼうぐい》、満潮に流れ寄る石垣下の藻草《もぐさ》のちぎれ、船の横腹、竹竿《たけざお》なぞが、逸早《いちはや》く月の光を受けて蒼《あお》く輝き出した。忽ち長吉は自分の影が橋板の上に段々に濃く描き出されるのを知った。通りかかるホーカイ節《ぶし》の男女が二人、「まア御覧よ。お月様。」といって暫《しばら》く立止った後《のち》、山谷堀の岸辺《きしべ》に曲るが否や当付《あてつけ》がましく、
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※[#歌記号、1−3−28]書生さん橋の欄干《らんかん》に腰|打《うち》かけて――
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と立ちつづく小家《こいえ》の前で歌ったが金にならないと見たか歌いも了《おわ》らず、元の急足《いそぎあし》で吉原土手《よしわらどて》の方へ行ってしまった。
長吉はいつも忍会《しのびあい》の恋人が経験するさまざまの懸念《けねん》と待ちあぐむ心のいらだちの外《ほか》に、何とも知れぬ一種の悲哀を感じた。お糸と自分との行末……行末というよりも今夜会って後《のち》の明日《あした》はどうなるのであろう。お糸は今夜|兼《かね》てから話のしてある葭町《よしちょう》の芸者屋《げいしゃや》まで出掛けて相談をして来るという事で、その道中《どうちゅう》をば二人一緒に話しながら歩こうと約束したのである。お糸がいよいよ芸者になってしまえばこれまでのように毎日|逢《あ》う事ができなくなるのみならず、それが万事の終りであるらしく思われてならない。自分の知らない如何《いか》にも遠い国へと再び帰る事なく去《い》ってしまうような気がしてならないのだ。今夜のお月様は忘れられない。一生に二度見られない月だなアと長吉はしみじみ思った。あらゆる記憶の数々が電光のように閃《ひらめ》く。最初|地方町《じかたまち》の小学校へ行く頃は毎日のように喧嘩《けんか》して遊んだ。やがては皆《みん》なから近所の板塀《いたべい》や土蔵の壁に相々傘《あいあいがさ》をかかれて囃《はや》された。小梅の伯父さんにつれられて奥山の見世物《みせもの》を見に行ったり池の鯉《こい》に麩《ふ》をやったりした。
三社祭《さんじゃまつり》の折お糸は或年|踊屋台《おどりやたい》へ出て道成寺《どうじょうじ》を踊った。町内一同で毎年《まいとし》汐干狩《しおひがり》に行く船の上でもお糸はよく踊った。学校の帰り道には毎日のように待乳山《まつちやま》の境内《けいだい》で待合せて、人の知らない山谷《さんや》の裏町から吉原田圃《よしわらたんぼ》を歩いた……。ああ、お糸は何故《なぜ》芸者なんぞになるんだろう。芸者なんぞになっちゃいけないと引止めたい。長吉は無理にも引止めねばならぬと決心したが、すぐその傍《そば》から、自分はお糸に対しては到底それだけの威力のない事を思返《おもいかえ》した。果敢《はかな》い絶望と諦《あきら》めとを感じた。お糸は二ツ年下の十六であるが、この頃になっては長吉は殊更《ことさら》に日一日とお糸が遥《はる》か年上の姉であるような心持がしてならぬのであった。いや最初からお糸は長吉よりも強かった。長吉よりも遥《はるか》に臆病《おくびょう》ではなかった。お糸長吉と相々傘にかかれて皆なから囃された時でもお糸はびく[#「びく」に傍点]ともしなかった。平気な顔で長《ちょう》ちゃんはあたいの旦那《だんな》だよと怒鳴《どな》った。去年初めて学校からの帰り道を待乳山で待ち合わそうと申出《もうしだ》したのもお糸であった。宮戸座《みやとざ》の立見《たちみ》へ行こうといったのもお糸が先であった。帰りの晩《おそ》くなる事をもお糸の方がかえって心配しなかった。知らない道に迷っても、お糸は行ける
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