》に引幕《ひきまく》の一方にさし込む夕陽《ゆうひ》の光が、その進み入る道筋だけ、空中に漂《ただよ》う塵と煙草の煙をばありありと眼に見せる。長吉はこの夕陽の光をば何という事なく悲しく感じながら、折々《おりおり》吹込む外の風が大きな波を打《うた》せる引幕の上を眺めた。引幕には市川《いちかわ》○○丈《じょう》へ、浅草公園|芸妓連中《げいぎれんじゅう》として幾人《いくたり》となく書連《かきつら》ねた芸者の名が読まれた。暫《しばら》くして、
「吉さん、君、あの中で知ってる芸者があるかい。」
「たのむよ。公園は乃公《おいら》たちの縄張中《なわばりうち》だぜ。」吉さんは一種の屈辱を感じたのであろう、嘘《うそ》か誠か、幕の上にかいてある芸者の一人々々の経歴、容貌、性質を限りもなく説明しはじめた。
拍子木がチョンチョンと二ツ鳴った。幕開《まくあき》の唄《うた》と三味線が聞え引かれた幕が次第に細《こま》かく早める拍子木の律《りつ》につれて片寄せられて行く。大向《おおむこう》から早くも役者の名をよぶ掛け声。たいくつした見物人の話声が一時《いちじ》に止《や》んで、場内は夜の明けたような一種の明るさと一種の活気《かっき》を添えた。
八
お豊《とよ》は今戸橋《いまとばし》まで歩いて来て時節《じせつ》は今《いま》正《まさ》に爛漫《らんまん》たる春の四月である事を始めて知った。手一ツの女世帯《おんなじょたい》に追われている身は空が青く晴れて日が窓に射込《さしこ》み、斜向《すじむこう》の「宮戸川《みやとがわ》」という鰻屋《うなぎや》の門口《かどぐち》の柳が緑色の芽をふくのにやっと時候の変遷を知るばかり。いつも両側の汚れた瓦屋根《かわらやね》に四方《あたり》の眺望を遮《さえざ》られた地面の低い場末の横町《よこちょう》から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川《すみだがわ》は、一年に二、三度と数えるほどしか外出《そとで》する事のない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡った空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につづく桜の花、種々《さまざま》の旗が閃《ひらめ》く大学の艇庫《ていこ》、その辺《へん》から起る人々の叫び声、鉄砲の響《ひびき》。渡船《わたしぶね》から上下《あがりお》りする花見の人の混雑。あたり一面の光景は疲れた母親の眼には余りに色彩が強烈すぎるほどであった。お豊は渡場《わたしば》の方へ下《お》りかけたけれど、急に恐るる如く踵《くびす》を返して、金竜山下《きんりゅうざんした》の日蔭《ひかげ》になった瓦町《かわらまち》を急いだ。そして通りがかりのなるべく汚《きたな》い車、なるべく意気地《いくじ》のなさそうな車夫《しゃふ》を見付けて恐る恐る、
「車屋さん、小梅《こうめ》まで安くやって下さいな。」といった。
お豊は花見どころの騒ぎではない。もうどうしていいのか分らない。望みをかけた一人息子の長吉は試験に落第してしまったばかりか、もう学校へは行きたくない、学問はいやだといい出した。お豊は途法《とほう》に暮れた結果、兄の蘿月《らげつ》に相談して見るより外《ほか》に仕様がないと思ったのである。
三度目に掛合《かけあ》った老車夫が、やっとの事でお豊の望む賃銀で小梅行きを承知した。吾妻橋《あずまばし》は午後の日光と塵埃《じんあい》の中におびただしい人出《ひとで》である。着飾った若い花見の男女を載《の》せて勢《いきおい》よく走る車の間《あいだ》をば、お豊を載せた老車夫は梶《かじ》を振りながらよたよた歩いて橋を渡るや否や桜花の賑《にぎわ》いを外《よそ》に、直《す》ぐと中《なか》の郷《ごう》へ曲って業平橋《なりひらばし》へ出ると、この辺はもう春といっても汚い鱗葺《こけらぶき》の屋根の上に唯《た》だ明《あかる》く日があたっているというばかりで、沈滞した堀割《ほりわり》の水が麗《うららか》な青空の色をそのままに映している曳舟通《ひきふねどお》り。昔は金瓶楼《きんべいろう》の小太夫《こだゆう》といわれた蘿月の恋女房は、綿衣《ぬのこ》の襟元《えりもと》に手拭《てぬぐい》をかけ白粉焼《おしろいや》けのした皺《しわ》の多い顔に一ぱいの日を受けて、子供の群《むれ》がめんこ[#「めんこ」に傍点]や独楽《こま》の遊びをしている外《ほか》には至って人通りの少い道端《みちばた》の格子戸先《こうしどさき》で、張板《はりいた》に張物《はりもの》をしていた。駈《か》けて来て止る車と、それから下りるお豊の姿を見て、
「まアお珍しいじゃありませんか。ちょいと今戸《いまど》の御師匠《おししょう》さんですよ。」と開《あ》けたままの格子戸から家《うち》の内《なか》へと知らせる。内《なか》には主人《あるじ》の宗匠《そうしょう》が万年青《おもと》の鉢を並べた縁先《えんさき
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