そういったものの、長吉は吉さんの風采《ふうさい》の余りに変っているのに暫《しばら》くは二の句がつげなかった。吉さんというのは地方町《じかたまち》の小学校時代の友達で、理髪師《とこや》をしている山谷通《さんやどお》りの親爺《おやじ》の店で、これまで長吉の髪をかってくれた若衆《わかいしゅ》である。それが絹ハンケチを首に巻いて二重廻《にじゅうまわし》の下から大島紬《おおしまつむぎ》の羽織を見せ、いやに香水を匂《にお》わせながら、
「長《ちょう》さん、僕は役者だよ。」と顔をさし出して長吉の耳元に囁《ささや》いた。
 立見の混雑の中でもあるし、長吉は驚いたまま黙っているより仕様がなかったが、舞台はやがて昨日《きのう》の通りに河端《かわばた》の暗闘《だんまり》になって、劇の主人公が盗んだ金を懐中《ふところ》に花道へ駈出《かけい》でながら石礫《いしつぶて》を打つ、それを合図にチョンと拍子木が響く。幕が動く。立見の人中《ひとなか》から例の「変るよーウ」と叫ぶ声。人崩《ひとなだ》れが狭い出口の方へと押合う間《うち》に幕がすっかり引かれて、シャギリの太鼓が何処《どこ》か分らぬ舞台の奥から鳴り出す。吉さんは長吉の袖《そで》を引止めて、
「長さん、帰るのか。いいじゃないか。もう一幕見ておいでな。」
 役者の仕着《しき》せを着た賤《いや》しい顔の男が、渋紙《しぶかみ》を張った小笊《こざる》をもって、次の幕の料金を集めに来たので、長吉は時間を心配しながらもそのまま居残った。
「長さん、綺麗《きれい》だよ、掛けられるぜ。」吉さんは人のすいた後《うしろ》の明り取りの窓へ腰をかけて長吉が並んで腰かけるのを待つようにして再び「僕ァ役者だよ。変ったろう。」といいながら友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の襦袢《じゅばん》の袖を引き出して、わざとらしく脱《はず》した黒い金縁眼鏡《きんぶちめがね》の曇りを拭きはじめた。
「変ったよ。僕ァ始め誰かと思った。」
「驚いたかい。ははははは。」吉さんは何ともいえぬほど嬉しそうに笑って、「頼むぜ。長さん。こう見えたって憚《はばか》りながら役者だ。伊井《いい》一座の新俳優だ。明後日《あさって》からまた新富町《しんとみちょう》よ。出揃《でそろ》ったら見に来給え。いいかい。楽屋口《がくやぐち》へ廻って、玉水《たまみず》を呼んでくれっていいたまえ。」
「玉水……?」
「うむ、玉水三郎……。」いいながら急《せわ》しなく懐中《ふところ》から女持《おんなもち》の紙入《かみいれ》を探《さぐ》り出して、小さな名刺を見せ、「ね、玉水三郎。昔の吉さんじゃないぜ。ちゃんともう番附《ばんづけ》に出ているんだぜ。」
「面白いだろうね。役者になったら。」
「面白かったり、辛《つら》かったり……しかし女にゃア不自由しねえよ。」吉さんはちょっと長吉の顔を見て、「長さん、君は遊ぶのかい。」
 長吉は「まだ」と答えるのがその瞬間男の恥であるような気がして黙った。
「江戸一の梶田楼《かじたろう》ッていう家《うち》を知ってるかい。今夜一緒にお出でな。心配しないでもいいんだよ。のろけるんじゃないが、心配しないでもいいわけがあるんだから。お安くないだろう。ははははは。」と吉さんは他愛もなく笑った。長吉は突然に、
「芸者は高いんだろうね。」
「長さん、君は芸者が好きなのか、贅沢《ぜいたく》だ。」と新俳優の吉さんは意外らしく長吉の顔を見返したが、「知れたもんさ。しかし金で女を買うなんざア、ちッとお人《ひと》が好過《よすざ》らア。僕ァ公園で二、三軒|待合《まちあい》を知ってるよ。連れてッてやろう。万事《ばんじ》方寸《ほうすん》の中《うち》にありさ。」
 先刻《さっき》から三人四人と絶えず上って来る見物人で大向《おおむこう》はかなり雑沓《ざっとう》して来た。前の幕から居残っている連中《れんじゅう》には待ちくたびれて手を鳴《なら》すものもある。舞台の奥から拍子木の音が長い間《ま》を置きながら、それでも次第に近く聞えて来る。長吉は窮屈に腰をかけた明り取りの窓から立上る。すると吉さんは、
「まだ、なかなかだ。」と独言《ひとりごと》のようにいって、「長さん。あれァ廻りの拍子木といって道具立《どうぐだて》の出来上ッたって事を、役者の部屋の方へ知らせる合図なんだ。開《あ》くまでにゃアまだ、なかなかよ。」
 悠然として巻煙草《まきたばこ》を吸い初める。長吉は「そうか」と感服したらしく返事をしながら、しかし立上ったままに立見の鉄格子から舞台の方を眺めた。花道から平土間《ひらどま》の桝《ます》の間《あいだ》をば吉さんの如く廻りの拍子木の何たるかを知らない見物人が、すぐにも幕があくのかと思って、出歩いていた外《そと》から各自の席に戻ろうと右方左方へと混雑している。横手の桟敷裏《さじきうら》から斜《ななめ
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