》へ小机を据え頻《しきり》に天地人《てんちじん》の順序をつける俳諧《はいかい》の選《せん》に急がしい処であった。
 掛けている眼鏡をはずして、蘿月は机を離れて座敷の真中《まんなか》に坐り直ったが、襷《たすき》をとりながら這入《はい》って来る妻のお滝《たき》と来訪のお豊、同じ年頃《としごろ》の老いた女同士は幾度《いくたび》となくお辞儀の譲合《ゆずりあい》をしては長々しく挨拶《あいさつ》した。そしてその挨拶の中に、「長ちゃんも御丈夫ですか。」「はア、しかし彼《あれ》にも困りきります。」というような問答《もんどう》から、用件は案外に早く蘿月の前に提出される事になったのである。蘿月は静《しずか》に煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》をはたいて、誰にかぎらず若い中《うち》はとかくに気の迷うことがある。気の迷っている時には、自分にも覚えがあるが、親の意見も仇《あだ》としか聞えない。他《はた》から余り厳しく干渉するよりはかえって気まかせにして置く方が薬になりはしまいかと論じた。しかし目に見えない将来の恐怖ばかりに満《みた》された女親の狭い胸にはかかる通人《つうじん》の放任主義は到底|容《い》れられべきものでない。お豊は長吉が久しい以前からしばしば学校を休むために自分の認印《みとめいん》を盗んで届書《とどけしょ》を偽造していた事をば、暗黒な運命の前兆である如く、声まで潜《ひそ》めて長々しく物語る……
「学校がいやなら如何《どう》するつもりだと聞いたら、まアどうでしょう、役者になるんだッていうんですよ。役老に。まア、どうでしょう。兄さん。私ゃそんなに長吉の根性が腐っちまッたのかと思ったら、もう実に口惜《くや》しくッてならないんですよ。」
「へーえ、役者になりたい。」訝《いぶか》る間《ま》もなく蘿月は七ツ八ツの頃によく三味線を弄物《おもちゃ》にした長吉の生立《おいた》ちを回想した。「当人がたってと望むなら仕方のない話だが……困ったものだ。」
 お豊は自分の身こそ一家の不幸のために遊芸の師匠に零落《れいらく》したけれど、わが子までもそんな賤《いや》しいものにしては先祖の位牌《いはい》に対して申訳《もうしわけ》がないと述べる。蘿月は一家の破産滅亡の昔をいい出されると勘当《かんどう》までされた放蕩三昧《ほうとうざんまい》の身は、何《なん》につけ、禿頭《はげあたま》をかきたいような当惑を感ずる。もともと芸人社会は大好《だいすき》な趣味性から、お豊の偏屈《へんくつ》な思想をば攻撃したいと心では思うもののそんな事からまたしても長たらしく「先祖の位牌」を論じ出されては堪《たま》らないと危《あやぶ》むので、宗匠《そうしょう》は先《ま》ずその場を円滑《えんかつ》に、お豊を安心させるようにと話をまとめかけた。
「とにかく一応は私《わし》が意見しますよ、若い中《うち》は迷うだけにかえって始末のいいものさ。今夜にでも明日《あした》にでも長吉に遊びに来るようにいって置きなさい。私《わし》がきっと改心さして見せるから、まアそんなに心配しないがいいよ。なに世の中は案じるより産《う》むが安いさ。」
 お豊は何分よろしくと頼んでお滝が引止めるのを辞退してその家を出た。春の夕陽《ゆうひ》は赤々と吾妻橋《あずまばし》の向うに傾いて、花見帰りの混雑を一層引立てて見せる。その中《うち》にお豊は殊更元気よく歩いて行く金ボタンの学生を見ると、それが果して大学校の生徒であるか否かは分らぬながら、我児《わがこ》もあのような立派な学生に仕立てたいばかりに、幾年間女の身一人《みひとつ》で生活と戦って来たが、今は生命《いのち》に等しい希望の光も全く消えてしまったのかと思うと実に堪えられぬ悲愁に襲われる。兄の蘿月に依頼しては見たもののやっぱり安心が出来ない。なにも昔の道楽者だからという訳ではない。長吉に志を立てさせるのは到底|人間業《にんげんわざ》では及《およば》ぬ事、神仏《かみほとけ》の力に頼らねばならぬと思い出した。お豊は乗って来た車から急に雷門《かみなりもん》で下りた。仲店《なかみせ》の雑沓《ざっとう》をも今では少しも恐れずに観音堂へと急いで、祈願を凝《こら》した後に、お神籤《みくじ》を引いて見た。古びた紙片《かみきれ》に木版摺《もくはんずり》で、
[#お神籤の図(fig50556_01.png)入る]
 お豊は大吉《だいきち》という文字を見て安心はしたものの、大吉はかえって凶《きょう》に返りやすい事を思い出して、またもや自分からさまざまな恐怖を造出《つくりだ》しつつ、非常に疲れて家《うち》へ帰った。

      九

 午後《ひるすぎ》から亀井戸《かめいど》の竜眼寺《りゅうがんじ》の書院で俳諧《はいかい》の運座《うんざ》があるというので、蘿月《らげつ》はその日の午前に訪ねて来た長吉と茶漬《ちゃづけ
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