月一ぱい寝通してしまった。
八幡さまの境内に今日は朝から初午《はつうま》の太鼓が聞える。暖い穏《おだやか》な午後《ひるすぎ》の日光が一面にさし込む表の窓の障子には、折々《おりおり》軒《のき》を掠《かす》める小鳥の影が閃《ひらめ》き、茶の間の隅の薄暗い仏壇の奥までが明《あかる》く見え、床《とこ》の間《ま》の梅がもう散りはじめた。春は閉切《しめき》った家《うち》の中までも陽気におとずれて来たのである。
長吉は二、三日前から起きていたので、この暖い日をぶらぶら散歩に出掛けた。すっかり全快した今になって見れば、二十日《はつか》以上も苦しんだ大病を長吉はもっけの幸いであったと喜んでいる。とても来月の学年試験には及第する見込みがないと思っていた処なので、病気欠席の後《あと》といえば、落第しても母に対して尤《もっとも》至極《しごく》な申訳《もうしわけ》ができると思うからであった。
歩いて行く中《うち》いつか浅草《あさくさ》公園の裏手へ出た。細い通りの片側には深い溝《どぶ》があって、それを越した鉄柵《てつさく》の向うには、処々《ところどころ》の冬枯れして立つ大木《たいぼく》の下に、五区《ごく》の揚弓店《ようきゅうてん》の汚《きたな》らしい裏手がつづいて見える。屋根の低い片側町《かたかわまち》の人家は丁度|後《うしろ》から深い溝の方へと押詰められたような気がするので、大方そのためであろう、それほどに混雑もせぬ往来がいつも妙に忙《いそが》しく見え、うろうろ徘徊《はいかい》している人相《にんそう》の悪い車夫《しゃふ》がちょっと風采《みなり》の小綺麗《こぎれい》な通行人の後《あと》に煩《うるさ》く付き纏《まと》って乗車を勧《すす》めている。長吉はいつも巡査が立番《たちばん》している左手の石橋《いしばし》から淡島《あわしま》さまの方までがずっと見透《みとお》される四辻《よつつじ》まで歩いて来て、通りがかりの人々が立止って眺めるままに、自分も何という事なく、曲り角に出してある宮戸座《みやとざ》の絵看板《えかんばん》を仰いだ。
いやに文字《もんじ》の間《あいだ》をくッ付けて模様のように太く書いてある名題《なだい》の木札《きふだ》を中央《まんなか》にして、その左右には恐しく顔の小《ちいさ》い、眼の大《おおき》い、指先の太い人物が、夜具をかついだような大《おおき》い着物を着て、さまざまな誇張的の姿勢で活躍しているさまが描《えが》かれてある。この大きい絵看板を蔽《おお》う屋根形の軒には、花車《だし》につけるような造り花が美しく飾りつけてあった。
長吉はいかほど暖い日和《ひより》でも歩いているとさすがにまだ立春になったばかりの事とて暫《しばら》くの間寒い風をよける処をと思い出した矢先《やさき》、芝居の絵看板を見て、そのまま狭い立見《たちみ》の戸口へと進み寄った。内《うち》へ這入《はい》ると足場の悪い梯子段《はしごだん》が立っていて、その中《なか》ほどから曲るあたりはもう薄暗く、臭い生暖《なまあたたか》い人込《ひとごみ》の温気《うんき》がなお更暗い上の方から吹き下りて来る。頻《しきり》に役者の名を呼ぶ掛声《かけごえ》が聞える。それを聞くと長吉は都会育ちの観劇者ばかりが経験する特種《とくしゅ》の快感と特種の熱情とを覚えた。梯子段の二、三段を一躍《ひとと》びに駈上《かけあが》って人込みの中に割込むと、床板《ゆかいた》の斜《ななめ》になった低い屋根裏の大向《おおむこう》は大きな船の底へでも下りたような心持。後《うしろ》の隅々《すみずみ》についている瓦斯《ガス》の裸火《はだかび》の光は一ぱいに詰《つま》っている見物人の頭に遮《さえぎ》られて非常に暗く、狭苦しいので、猿のように人のつかまっている前側の鉄棒から、向うに見える劇場の内部は天井ばかりがいかにも広々と見え、舞台は色づき濁った空気のためにかえって小さく甚《はなはだ》遠く見えた。舞台はチョンと打った拍子木の音に今丁度廻って止《とま》った処である。極めて一直線な石垣を見せた台の下に汚れた水色の布が敷いてあって、後《うしろ》を限る書割《かきわり》には小《ちいさ》く大名屋敷《だいみょうやしき》の練塀《ねりべい》を描《えが》き、その上の空一面をば無理にも夜だと思わせるように隙間《すきま》もなく真黒《まっくろ》に塗りたててある。長吉は観劇に対するこれまでの経験で「夜」と「川端《かわばた》」という事から、きっと殺《ころ》し場《ば》に違いないと幼い好奇心から丈伸《せの》びをして首を伸《のば》すと、果《はた》せるかな、絶えざる低い大太鼓《おおだいこ》の音に例の如く板をバタバタ叩《たた》く音が聞えて、左手の辻番小屋の蔭《かげ》から仲間《ちゅうげん》と蓙《ござ》を抱えた女とが大きな声で争いながら出て来る。見物人が笑った。舞台の人物
前へ
次へ
全24ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング