は落したものを捜《さが》す体《てい》で何かを取り上げると、突然前とは全く違った態度になって、極めて明瞭に浄瑠璃外題《じょうるりげだい》「梅柳中宵月《うめやなぎなかもよいづき》」、勤めまする役人……と読みはじめる。それを待構えて彼方《かなた》此方《こなた》から見物人が声をかけた。再び軽い拍子木の音を合図に、黒衣《くろご》の男が右手の隅に立てた書割の一部を引取ると裃《かみしも》を着た浄瑠璃語《じょうるりかたり》三人、三味線弾《しゃみせんひき》二人が、窮屈そうに狭い台の上に並んでいて、直《す》ぐに弾出《ひきだ》す三味線からつづいて太夫《たゆう》が声を合《あわ》してかたり出した。長吉はこの種の音楽にはいつも興味を以て聞き馴《な》れているので、場内の何処《どこ》かで泣き出す赤児《あかご》の声とそれを叱咤《しった》する見物人の声に妨げられながら、しかも明《あきら》かに語る文句と三味線の手までを聴《き》き分ける。
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※[#歌記号、1−3−28]朧夜《おぼろよ》に星の影さへ二ツ三ツ、四ツか五ツか鐘の音《ね》も、もしや我身《わがみ》の追手《おって》かと……
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またしても軽いバタバタが聞えて夢中になって声をかける見物人のみならず場中《じょうちゅう》一体が気色立《けしきだ》つ。それも道理だ。赤い襦袢《じゅばん》の上に紫繻子《むらさきじゅす》の幅広い襟《えり》をつけた座敷着の遊女が、冠《かぶ》る手拭《てぬぐい》に顔をかくして、前かがまりに花道《はなみち》から駈出《かけだ》したのである。「見えねえ、前が高いッ。」「帽子をとれッ。」「馬鹿野郎。」なぞと怒鳴《どな》るものがある。
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※[#歌記号、1−3−28]落ちて行衛《ゆくえ》も白魚《しらうお》の、舟のかがりに網よりも、人目いとうて後先《あとさき》に……
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女に扮《ふん》した役者は花道の尽きるあたりまで出て後《うしろ》を見返りながら台詞《せりふ》を述べた。その後《あと》に唄《うた》がつづく。
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※[#歌記号、1−3−28]しばし彳《たたず》む上手《うわて》より梅見返《うめみがえ》りの舟の唄。※[#歌記号、1−3−28]忍ぶなら忍ぶなら闇《やみ》の夜は置かしやんせ、月に雲のさはりなく、辛気《しんき》待つ宵、十六夜《いざよい》の、内《うち》の首尾《しゅび》はエーよいとのよいとの。※[#歌記号、1−3−28]聞く辻占《つじうら》にいそいそと雲足早き雨空《あまぞら》も、思ひがけなく吹き晴れて見かはす月の顔と顔……
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見物がまた騒ぐ。真黒に塗りたてた空の書割の中央《まんなか》を大きく穿抜《くりぬ》いてある円《まる》い穴に灯《ひ》がついて、雲形《くもがた》の蔽《おお》いをば糸で引上げるのが此方《こなた》からでも能《よ》く見えた。余りに月が大きく明《あかる》いから、大名屋敷の塀の方が遠くて月の方がかえって非常に近く見える。しかし長吉は他の見物も同様少しも美しい幻想を破られなかった。それのみならず去年の夏の末、お糸を葭町《よしちょう》へ送るため、待合《まちあわ》した今戸《いまど》の橋から眺めた彼《あ》の大きな円《まる》い円い月を思起《おもいおこ》すと、もう舞台は舞台でなくなった。
着流し散髪《ざんぱつ》の男がいかにも思いやつれた風《ふう》で足許《あしもと》危《あやう》く歩み出る。女と摺《す》れちがいに顔を見合して、
「十六夜《いざよい》か。」
「清心《せいしん》さまか。」
女は男に縋《すが》って、「逢《あ》ひたかつたわいなア。」
見物人が「やア御両人《ごりょうにん》。」「よいしょ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑う声。「静かにしろい。」と叱《しか》りつける熱情家もあった。
舞台は相《あい》愛する男女の入水《じゅすい》と共に廻って、女の方が白魚舟《しらうおぶね》の夜網《よあみ》にかかって助けられる処になる。再び元の舞台に返って、男も同じく死ぬ事が出来なくて石垣の上に這《は》い上《あが》る。遠くの騒ぎ唄、富貴《ふうき》の羨望《せんぼう》、生存の快楽、境遇の絶望、機会と運命、誘惑、殺人。波瀾《はらん》の上にも脚色の波瀾を極めて、遂に演劇の一幕《ひとまく》が終る。耳元近くから恐しい黄《きいろ》い声が、「変るよ――ウ」と叫び出した。見物人が出口の方へと崩《なだれ》を打って下《お》りかける。
長吉は外へ出ると急いで歩いた。あたりはまだ明《あかる》いけれどもう日は当っていない。ごたごたした千束町《せんぞくまち》の小売店《こうりみせ》の暖簾《のれん》や旗なぞが激しく飜《ひるがえ》っている。通りがかりに時間を見るため腰をかがめて覗
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