めから覚悟していた事なので長吉は黙って首をたれて、何かにつけてすぐに「親一人子一人」と哀《あわれ》ッぽい事をいい出す母親の意見を聞いていた。午前《ひるまえ》稽古《けいこ》に来る小娘たちが帰って後《のち》午過《ひるすぎ》には三時過ぎてからでなくては、学校帰りの娘たちはやって来ぬ。今が丁度母親が一番手すきの時間である。風がなくて冬の日が往来の窓一面にさしている。折から突然まだ格子戸《こうしど》をあけぬ先から、「御免《ごめん》なさい。」という華美《はで》な女の声、母親が驚いて立つ間《ま》もなく上框《あがりがまち》の障子の外から、「おばさん、わたしよ。御無沙汰《ごぶさた》しちまって、お詫《わ》びに来たんだわ。」
 長吉は顫《ふる》えた。お糸である。お糸は立派なセルの吾妻《あずま》コオトの紐《ひも》を解《と》き解き上って来た。
「あら、長《ちょう》ちゃんもいたの。学校がお休み……あら、そう。」それから付けたように、ほほほほと笑って、さて丁寧に手をついて御辞儀をしながら、「おばさん、お変りもありませんの。ほんとに、つい家《うち》が出にくいものですから、あれッきり御無沙汰しちまって……。」
 お糸は縮緬《ちりめん》の風呂敷《ふろしき》につつんだ菓子折を出した。長吉は呆気《あっけ》に取られたさまで物もいわずにお糸の姿を目戍《みまも》っている。母親もちょっと烟《けむ》に巻かれた形で進物《しんもつ》の礼を述べた後、「きれいにおなりだね。すっかり見違えちまったよ。」といった。
「いやにふけ[#「ふけ」に傍点]ちまったでしょう。皆《みんな》そういってよ。」とお糸は美しく微笑《ほほえ》んで紫《むらさき》縮緬の羽織の紐の解けかかったのを結び直すついでに帯の間から緋天鵞絨《ひびろうど》の煙草入《たばこいれ》を出して、「おばさん。わたし、もう煙草|喫《の》むようになったのよ。生意気でしょう。」
 今度は高く笑った。
「こっちへおよんなさい。寒いから。」と母親のお豊は長火鉢の鉄瓶《てつびん》を下《おろ》して茶を入れながら、「いつお弘《ひろ》めしたんだえ。」
「まだよ。ずっと押詰《おしづま》ってからですって。」
「そう。お糸ちゃんなら、きっと売れるわね。何しろ綺麗《きれい》だし、ちゃんともう地《じ》は出来ているんだし……。」
「おかげさまでねえ。」とお糸は言葉を切って、「あっちの姉さんも大変に喜んでたわ。私なんかよりもっと大きなくせに、それァ随分出来ない娘《こ》がいるんですもの。」
「この節《せつ》の事《こっ》たから……。」お豊はふと気がついたように茶棚から菓子鉢を出して、「あいにく何《なん》にもなくって……道了《どうりょう》さまのお名物だって、ちょっとおつなものだよ。」と箸《はし》でわざわざ摘《つま》んでやった。
「お師匠《っしょ》さん、こんちは。」と甲高《かんだか》な一本調子で、二人《ふたり》づれの小娘が騒々しく稽古《けいこ》にやって来た。
「おばさん、どうぞお構いなく……。」
「なにいいんですよ。」といったけれどお豊はやがて次の間《ま》へ立った。
 長吉は妙に気《き》まりが悪くなって自然に俯向《うつむ》いたが、お糸の方は一向変った様子もなく小声で、
「あの手紙届いて。」
 隣の座敷では二人の小娘が声を揃《そろ》えて、嵯峨《さが》やお室《むろ》の花ざかり。長吉は首ばかり頷付《うなずか》せてもじもじ[#「もじもじ」に傍点]している。お糸が手紙を寄越《よこ》したのは一《いち》の酉《とり》の前《まえ》時分《じぶん》であった。つい家《うち》が出にくいというだけの事である。長吉は直様《すぐさま》別れた後《のち》の生涯をこまごまと書いて送ったが、しかし待ち設けたような、折返したお糸の返事は遂に聞く事が出来なかったのである。
「観音さまの市《いち》だわね。今夜一所に行かなくって。あたい今夜泊ってッてもいいんだから。」
 長吉は隣座敷の母親を気兼《きがね》して何とも答える事ができない。お糸は構わず、
「御飯たべたら迎いに来てよ。」といったがその後《あと》で、「おばさんも一所にいらッしゃるでしょうね。」
「ああ。」と長吉は力の抜けた声になった。
「あの……。」お糸は急に思出して、「小梅の伯父さん、どうなすって、お酒に酔《え》って羽子板屋《はごいたや》のお爺《じい》さんと喧嘩《けんか》したわね。何時《いつ》だったか。私《わたし》怖くなッちまッたわ。今夜いらッしゃればいいのに。」
 お糸は稽古の隙《すき》を窺《うかが》ってお豊に挨拶《あいさつ》して、「じゃ、晩ほど。どうもお邪魔いたしました。」といいながらすたすた帰った。

      六

 長吉は風邪《かぜ》をひいた。七草《ななくさ》過ぎて学校が始《はじま》った処から一日無理をして通学したために、流行のインフルエンザに変って正
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