ぶ遊民の散歩場《さんぽじょう》ではなくて行く処としてこれ戦乱後新興の時代の修羅場《しゅらじょう》たらざるはない。その中《なか》にもなおわずかにわが曲りし杖《つえ》を留《とど》め、疲れたる歩みを休めさせた処はやはりいにしえの唄《うた》に残った隅田川《すみだがわ》の両岸であった。隅田川はその当時|目《ま》のあたり眺める破損の実景と共に、子供の折に見覚えた朧《おぼ》ろなる過去の景色の再来と、子供の折から聞伝《ききつた》えていたさまざまの伝説の美とを合せて、いい知れぬ音楽の中に自分を投込んだのである。既に全く廃滅に帰せんとしている昔の名所の名残ほど自分の情緒に対して一致調和を示すものはない。自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷《いた》むる感激の情とを把《と》ってここに何物かを創作せんと企てた。これが小説『すみだ川』である。さればこの小説一篇は隅田川という荒廃の風景が作者の視覚を動《うごか》したる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共にまたこの一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止《や》みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によってその抒情詩的本能を外発さすべき象徴を捜《もと》めた理想的内面の芸術ともいい得よう。さればこの小説中に現わされた幾多の叙景《じょけい》は篇中の人物と同じく、否《いな》時としては人物より以上に重要なる分子として取扱われている。それと共に篇中の人物は実在のモデルによって活《い》ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリイ、ド、レニエエがかの『賢き一青年の休暇』に現《あらわ》したる人物と斉《ひと》しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇《よみがえ》り来《きた》った遠い過去の人物の正《まさ》に消え失《う》せんとするその面影《おもかげ》を捉《とら》えたに過ぎない。作者はその少年時代によく見馴《みな》れたこれら人物に対していかなる愛情と懐《なつか》しさとを持っているかは言うを俟《ま》たぬ。今年花また開くの好時節に際し都下の或《ある》新聞紙は※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]上《ぼくじょう》の桜樹《おうじゅ》漸《ようや》く枯死《こし》するもの多きを説く。ああ新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。さらばやがてはまた幾年の後に及んで、いそがしき世は製造所の煙筒《えんとう》叢立《むらだ
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