す節《ふし》の、ところどころを長吉は家《うち》の格子戸《こうしど》を開ける時まで繰返《くりかえ》し繰返し歩いた。

      七

 翌日《あくるひ》の午後《ひるすぎ》にまたもや宮戸座《みやとざ》の立見《たちみ》に出掛けた。長吉は恋の二人が手を取って嘆く美しい舞台から、昨日《きのう》始めて経験したいうべからざる悲哀の美感に酔《え》いたいと思ったのである。そればかりでなく黒ずんだ天井と壁《かべ》襖《ふすま》に囲まれた二階の室《へや》がいやに陰気臭くて、燈火《とうか》の多い、人の大勢集っている芝居の賑《にぎわ》いが、我慢の出来ぬほど恋しく思われてならなかったのである。長吉は失ったお糸の事以外に折々《おりおり》は唯《た》だ何という訳《わけ》もなく淋《さび》しい悲しい気がする。自分にもどういう訳だか少しも分らない。唯だ淋しい、唯だ悲しいのである。この寂寞《せきばく》この悲哀を慰めるために、長吉は定めがたい何物かを一刻一刻に激しく要求して止《や》まない。胸の底に潜《ひそ》んだ漠然たる苦痛を、誰と限らず優しい声で答えてくれる美しい女に訴えて見たくてならない。単にお糸一人の姿のみならず、往来で摺《す》れちがった見知らぬ女の姿が、島田の娘になったり、銀杏返《いちょうがえし》の芸者《げいしゃ》になったり、または丸髷《まるまげ》の女房姿になったりして夢の中に浮ぶ事さえあった。
 長吉は二度見る同じ芝居の舞台をば初めてのように興味深く眺めた。それと同時に、今度は賑《にぎや》かな左右の桟敷《さじき》に対する観察をも決して閑却しなかった。世の中にはあんなに大勢女がいる。あんなに大勢女のいる中で、どうして自分は一人も自分を慰めてくれる相手に邂逅《めぐりあ》わないのであろう。誰れでもいい。自分に一言《ひとこと》やさしい語《ことば》をかけてくれる女さえあれば、自分はこんなに切なくお糸の事ばかり思いつめてはいまい。お糸の事を思えば思うだけその苦痛をへらす他のものが欲しい。さすれば学校とそれに関連した身の前途に対する絶望のみに沈められていまい……。
 立見の混雑の中にその時突然自分の肩を突くものがあるので驚いて振向くと、長吉は鳥打帽《とりうちぼう》を眉深《まぶか》に黒い眼鏡をかけて、後《うしろ》の一段高い床《ゆか》から首を伸《のば》して見下《みおろ》す若い男の顔を見た。
「吉《きち》さんじゃないか。
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