《のぞ》いて見ると軒の低いそれらの家《うち》の奥は真暗《まっくら》であった。長吉は病後の夕風を恐れてますます歩みを早めたが、しかし山谷堀《さんやぼり》から今戸橋《いまどばし》の向《むこう》に開ける隅田川《すみだがわ》の景色を見ると、どうしても暫《しばら》く立止らずにはいられなくなった。河の面《おもて》は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞《かす》めている。荷船《にぶね》の帆の間をば鴎《かもめ》が幾羽となく飛び交《ちが》う。長吉はどんどん流れて行く河水《かわみず》をば何がなしに悲しいものだと思った。川向《かわむこう》の堤の上には一ツ二ツ灯《ひ》がつき出した。枯れた樹木、乾いた石垣、汚れた瓦《かわら》屋根、目に入《い》るものは尽《ことごと》く褪《あ》せた寒い色をしているので、芝居を出てから一瞬間とても消失《きえう》せない清心《せいしん》と十六夜《いざよい》の華美《はで》やかな姿の記憶が、羽子板《はごいた》の押絵《おしえ》のようにまた一段と際立《きわだ》って浮び出す。長吉は劇中の人物をば憎いほどに羨《うらや》んだ。いくら羨んでも到底及びもつかないわが身の上を悲しんだ。死んだ方がましだと思うだけ、一緒に死んでくれる人のない身の上を更に痛切に悲しく思った。
今戸橋を渡りかけた時、掌《てのひら》でぴしゃりと横面《よこつら》を張撲《はりなぐ》るような河風。思わず寒さに胴顫《どうぶる》いすると同時に長吉は咽喉《のど》の奥から、今までは記憶しているとも心付かずにいた浄瑠璃《じょうるり》の一節《いっせつ》がわれ知らずに流れ出るのに驚いた。
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※[#歌記号、1−3−28]今さらいふも愚痴《ぐち》なれど……
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と清元《きよもと》の一派が他流の模《も》すべからざる曲調《きょくちょう》の美麗を托した一節《いっせつ》である。長吉は無論|太夫《たゆう》さんが首と身体《からだ》を伸上《のびあが》らして唄ったほど上手に、かつまたそんな大きな声で唄ったのではない。咽喉から流れるままに口の中で低唱《ていしょう》したのであるが、それによって長吉はやみがたい心の苦痛が幾分か柔《やわら》げられるような心持がした。今更いうも愚痴なれど……ほんに思えば……岸より覗《のぞ》く青柳《あおやぎ》の……と思出《おもいだ》
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