雲のさはりなく、辛気《しんき》待つ宵、十六夜《いざよい》の、内《うち》の首尾《しゅび》はエーよいとのよいとの。※[#歌記号、1−3−28]聞く辻占《つじうら》にいそいそと雲足早き雨空《あまぞら》も、思ひがけなく吹き晴れて見かはす月の顔と顔……
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 見物がまた騒ぐ。真黒に塗りたてた空の書割の中央《まんなか》を大きく穿抜《くりぬ》いてある円《まる》い穴に灯《ひ》がついて、雲形《くもがた》の蔽《おお》いをば糸で引上げるのが此方《こなた》からでも能《よ》く見えた。余りに月が大きく明《あかる》いから、大名屋敷の塀の方が遠くて月の方がかえって非常に近く見える。しかし長吉は他の見物も同様少しも美しい幻想を破られなかった。それのみならず去年の夏の末、お糸を葭町《よしちょう》へ送るため、待合《まちあわ》した今戸《いまど》の橋から眺めた彼《あ》の大きな円《まる》い円い月を思起《おもいおこ》すと、もう舞台は舞台でなくなった。
 着流し散髪《ざんぱつ》の男がいかにも思いやつれた風《ふう》で足許《あしもと》危《あやう》く歩み出る。女と摺《す》れちがいに顔を見合して、
「十六夜《いざよい》か。」
「清心《せいしん》さまか。」
 女は男に縋《すが》って、「逢《あ》ひたかつたわいなア。」
 見物人が「やア御両人《ごりょうにん》。」「よいしょ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑う声。「静かにしろい。」と叱《しか》りつける熱情家もあった。

 舞台は相《あい》愛する男女の入水《じゅすい》と共に廻って、女の方が白魚舟《しらうおぶね》の夜網《よあみ》にかかって助けられる処になる。再び元の舞台に返って、男も同じく死ぬ事が出来なくて石垣の上に這《は》い上《あが》る。遠くの騒ぎ唄、富貴《ふうき》の羨望《せんぼう》、生存の快楽、境遇の絶望、機会と運命、誘惑、殺人。波瀾《はらん》の上にも脚色の波瀾を極めて、遂に演劇の一幕《ひとまく》が終る。耳元近くから恐しい黄《きいろ》い声が、「変るよ――ウ」と叫び出した。見物人が出口の方へと崩《なだれ》を打って下《お》りかける。
 長吉は外へ出ると急いで歩いた。あたりはまだ明《あかる》いけれどもう日は当っていない。ごたごたした千束町《せんぞくまち》の小売店《こうりみせ》の暖簾《のれん》や旗なぞが激しく飜《ひるがえ》っている。通りがかりに時間を見るため腰をかがめて覗
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