吉は浜町《はまちょう》の横町をば次第に道の行くままに大川端《おおかわばた》の方へと歩いて行った。いかほど機会を待っても昼中《ひるなか》はどうしても不便である事を僅《わず》かに悟り得たのであるが、すると、今度はもう学校へは遅くなった。休むにしても今日の半日、これから午後の三時までをどうして何処《どこ》に消費しようかという問題の解決に迫《せ》められた。母親のお豊《とよ》は学校の時間割までをよく知抜《しりぬ》いているので、長吉の帰りが一時間早くても、晩《おそ》くても、すぐに心配して煩《うるさ》く質問する。無論長吉は何とでも容易《たやす》くいい紛《まぎ》らすことは出来ると思うものの、それだけの嘘《うそ》をつく良心の苦痛に逢《あ》うのが厭《いや》でならない。丁度来かかる川端には、水練場《すいれんば》の板小屋が取払われて、柳の木蔭《こかげ》に人が釣《つり》をしている。それをば通りがかりの人が四人も五人もぼんやり立って見ているので、長吉はいい都合だと同じように釣を眺める振《ふり》でそのそばに立寄ったが、もう立っているだけの力さえなく、柳の根元の支木《ささえぎ》に背をよせかけながら蹲踞《しゃが》んでしまった。
 さっきから空の大半は真青《まっさお》に晴れて来て、絶えず風の吹き通《かよ》うにもかかわらず、じりじり人の肌に焼附《やきつ》くような湿気《しっけ》のある秋の日は、目の前なる大川《おおかわ》の水一面に眩《まぶ》しく照り輝くので、往来の片側に長くつづいた土塀《どべい》からこんもりと枝を伸《のば》した繁《しげ》りの蔭《かげ》がいかにも涼しそうに思われた。甘酒屋《あまざけや》の爺《じじ》がいつかこの木蔭《こかげ》に赤く塗った荷を下《おろ》していた。川向《かわむこう》は日の光の強いために立続く人家の瓦屋根《かわらやね》をはじめ一帯の眺望がいかにも汚らしく見え、風に追いやられた雲の列が盛《さかん》に煤煙《ばいえん》を吐《は》く製造場《せいぞうば》の烟筒《けむだし》よりも遥《はるか》に低く、動かずに層をなして浮《うか》んでいる。釣道具を売る後《うしろ》の小家《こいえ》から十一時の時計が鳴った。長吉は数えながらそれを聞いて、初めて自分はいかに長い時間を歩き暮したかに驚いたが、同時にこの分《ぶん》で行けば三時までの時間を空費するのもさして難《かた》くはないとやや安心することも出来た。長吉は釣師
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