《つりし》の一人が握飯《にぎりめし》を食いはじめたのを見て、同じように弁当箱を開いた。開いたけれども何だか気まりが悪くて、誰か見ていやしないかときょろきょろ四辺《あたり》を見廻した。幸い午近《ひるぢか》くのことで見渡す川岸に人の往来は杜絶《とだ》えている。長吉は出来るだけ早く飯《めし》でも菜《さい》でも皆《みん》な鵜呑《うの》みにしてしまった。釣師はいずれも木像のように黙っているし、甘酒屋の爺は居眠りしている。午過《ひるすぎ》の川端はますます静《しずか》になって犬さえ歩いて来ない処から、さすがの長吉も自分は何故《なぜ》こんなに気まりを悪がるのであろう臆病《おくびょう》なのであろうと我ながら可笑《おか》しい気にもなった。
 両国橋《りょうごくばし》と新大橋《しんおおはし》との間を一廻《ひとまわり》した後《のち》、長吉はいよいよ浅草《あさくさ》の方へ帰ろうと決心するにつけ、「もしや」という一念にひかされて再び葭町の路地口に立寄って見た。すると午前《ひるまえ》ほどには人通りがないのに先《ま》ず安心して、おそるおそる松葉屋の前を通って見たが、家《うち》の中は外から見ると非常に暗く、人の声三味線の音さえ聞えなかった。けれども長吉には誰にも咎《とが》められずに恋人の住む家《うち》の前を通ったというそれだけの事が、殆《ほと》んど破天荒《はてんこう》の冒険を敢《あえ》てしたような満足を感じさせたので、これまで歩きぬいた身の疲労と苦痛とを長吉は遂《つい》に後悔しなかった。

      四

 その週間の残りの日数《ひかず》だけはどうやらこうやら、長吉は学校へ通ったが、日曜日一日を過《すご》すとその翌朝《あくるあさ》は電車に乗って上野《うえの》まで来ながらふいと下《お》りてしまった。教師に差出すべき代数の宿題を一つもやって置かなかった。英語と漢文の下読《したよみ》をもして置かなかった。それのみならず今日はまた、凡《およ》そ世の中で何よりも嫌いな何よりも恐しい機械体操のある事を思い出したからである。長吉には鉄棒から逆《さかさ》にぶらさがったり、人の丈《たけ》より高い棚の上から飛下りるような事は、いかに軍曹上《ぐんそうあが》りの教師から強《し》いられても全級の生徒から一斉《いっせい》に笑われても到底出来|得《う》べきことではない。何によらず体育の遊戯にかけては、長吉はどうしても他の生徒一
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