座《めいじざ》の屋根を見てやがてやや広い往来へ出た時、その遠い道のはずれに河蒸汽船《かわじょうきせん》の汽笛の音の聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚《さと》った。同時に非常な疲労《つかれ》を感じた。制帽を冠《かぶ》った額《ひたい》のみならず汗は袴《はかま》をはいた帯のまわりまでしみ出していた。しかしもう一瞬間とても休む気にはならない。長吉は月の夜《よ》に連れられて来た路地口《ろじぐち》をば、これはまた一層の苦心、一層の懸念《けねん》、一層の疲労を以って、やっとの事で見出《みいだ》し得たのである。
片側《かたかわ》に朝日がさし込んでいるので路地の内《うち》は突当りまで見透《みとお》された。格子戸《こうしど》づくりの小《ちいさ》い家《うち》ばかりでない。昼間見ると意外に屋根の高い倉もある。忍返《しのびがえ》しをつけた板塀《いたべい》もある。その上から松の枝も見える。石灰《いしばい》の散った便所の掃除口も見える。塵芥箱《ごみばこ》の並んだ処もある。その辺《へん》に猫がうろうろしている。人通りは案外に烈《はげ》しい。極めて狭い溝板《どぶいた》の上を通行の人は互《たがい》に身を斜めに捻向《ねじむ》けて行き交《ちが》う。稽古《けいこ》の三味線《しゃみせん》に人の話声が交《まじ》って聞える。洗物《あらいもの》する水音《みずおと》も聞える。赤い腰巻に裾《すそ》をまくった小女《こおんな》が草箒《くさぼうき》で溝板の上を掃いている。格子戸の格子を一本々々一生懸命に磨いているのもある。長吉は人目の多いのに気後《きおく》れしたのみでなく、さて路地内に進入《すすみい》ったにした処で、自分はどうするのかと初めて反省の地位に返った。人知れず松葉屋《まつばや》の前を通って、そっとお糸の姿を垣間見《かいまみ》たいとは思ったが、あたりが余りに明過《あかるす》ぎる。さらばこのまま路地口に立っていて、お糸が何かの用で外へ出るまでの機会を待とうか。しかしこれもまた、長吉には近所の店先の人目が尽《ことごと》く自分ばかりを見張っているように思われて、とても五分と長く立っている事はできない。長吉はとにかく思案《しあん》をしなおすつもりで、折から近所の子供を得意にする粟餅屋《あわもちや》の爺《じじ》がカラカラカラと杵《きね》をならして来る向うの横町《よこちょう》の方《ほう》へと遠《とおざ》かった。
長
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