という事であった。まだ何時《いつ》出るのか分らないからまた近い中に遊びに来るわという懐《なつか》しい声も聞《きか》れないのではなかったが、それはもう今までのあどけない約束ではなくて、世馴《よな》れた人の如才《じょさい》ない挨拶《あいさつ》としか長吉には聞取れなかった。娘であったお糸、幼馴染《おさななじみ》の恋人のお糸はこの世にはもう生きていないのだ。路傍《みちばた》に寝ている犬を驚《おどろか》して勢よく駈《か》け去った車の後《あと》に、えもいわれず立迷った化粧の匂《にお》いが、いかに苦しく、いかに切《せつ》なく身中《みうち》にしみ渡ったであろう……。
 本堂の中にと消えた若い芸者の姿は再び階段の下に現れて仁王門《におうもん》の方へと、素足《すあし》の指先に突掛《つっか》けた吾妻下駄《あずまげた》を内輪《うちわ》に軽く踏みながら歩いて行く。長吉はその後姿《うしろすがた》を見送るとまた更に恨めしいあの車を見送った時の一刹那《いっせつな》を思起すので、もう何《なん》としても我慢が出来ぬというようにベンチから立上った。そして知らず知らずその後を追うて仲店《なかみせ》の尽《つき》るあたりまで来たが、若い芸者の姿は何処《どこ》の横町《よこちょう》へ曲ってしまったものか、もう見えない。両側の店では店先を掃除して品物を並べたてている最中《さいちゅう》である。長吉は夢中で雷門《かみなりもん》の方へどんどん歩いた。若い芸者の行衛《ゆくえ》を見究《みきわ》めようというのではない。自分の眼にばかりありあり見えるお糸の後姿を追って行くのである。学校の事も何も彼《か》も忘れて、駒形《こまかた》から蔵前《くらまえ》、蔵前から浅草橋《あさくさばし》……それから葭町《よしちょう》の方へとどんどん歩いた。しかし電車の通《とお》っている馬喰町《ばくろちょう》の大通りまで来て、長吉はどの横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生れたものだけに道をきくのが厭《いや》である。恋人の住む町と思えば、その名を徒《いたずら》に路傍の他人に漏《もら》すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐しくてならない。長吉は仕方なしに唯《た》だ左へ左へと、いいかげんに折れて行くと蔵造《くらづく》りの問屋らしい商家のつづいた同じような堀割の岸に二度も出た。その結果長吉は遥か向うに明治
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