していたが、その得意先《とくいさき》の一軒で橋場《はしば》の妾宅《しょうたく》にいる御新造《ごしんぞ》がお糸の姿を見て是非|娘分《むすめぶん》にして行末《ゆくすえ》は立派な芸者にしたてたいといい出した事からである。御新造の実家は葭町《よしちょう》で幅のきく芸者家《げいしゃや》であった。しかしその頃のお糸の家《うち》はさほどに困ってもいなかったし、第一に可愛い盛《さかり》の子供を手放すのが辛《つら》かったので、親の手元でせいぜい芸を仕込ます事になった。その後《ご》父親が死んだ折には差当《さしあた》り頼りのない母親は橋場の御新造の世話で今の煎餅屋《せんべいや》を出したような関係もあり、万事が金銭上の義理ばかりでなくて相方《そうほう》の好意から自然とお糸は葭町へ行くように誰《た》れが強《し》いるともなく決《きま》っていたのである。百も承知しているこんな事情を長吉はお糸の口からきくために質問したのでない。お糸がどうせ行かねばならぬものなら、もう少し悲しく自分のために別《わかれ》を惜しむような調子を見せてもらいたいと思ったからだ。長吉は自分とお糸の間にはいつの間《ま》にか互《たがい》に疎通しない感情の相違の生じている事を明《あきら》かに知って、更に深い悲《かなし》みを感じた。
 この悲みはお糸が土産物を買うため仁王門《におうもん》を過ぎて仲店《なかみせ》へ出た時更にまた堪えがたいものとなった。夕涼《ゆうすずみ》に出掛ける賑《にぎや》かな人出の中にお糸はふいと立止って、並んで歩く長吉の袖《そで》を引き、「長さん、あたいも直《じ》きあんな扮装《なり》するんだねえ。絽縮緬《ろちりめん》だねきっと、あの羽織……。」
 長吉はいわれるままに見返ると、島田に結《ゆ》った芸者と、それに連立《つれだ》って行くのは黒絽《くろろ》の紋付をきた立派な紳士であった。ああお糸が芸者になったら一緒に手を引いて歩く人はやっぱりああいう立派な紳士であろう。自分は何年たったらあんな紳士になれるのか知ら。兵児帯《へこおび》一ツの現在《いま》の書生姿がいうにいわれず情なく思われると同時に、長吉はその将来どころか現在においても、已《すで》に単純なお糸の友達たる資格さえないもののような心持がした。
 いよいよ御神燈《ごしんとう》のつづいた葭町の路地口《ろじぐち》へ来た時、長吉はもうこれ以上|果敢《はかな》いとか悲しい
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