処まで行って御覧よ。巡査《おまわり》さんにきけば分るよといって、かえって面白そうにずんずん歩いた……。
あたりを構わず橋板の上に吾妻下駄《あずまげた》を鳴《なら》す響《ひびき》がして、小走りに突然お糸がかけ寄った。
「おそかったでしょう。気に入らないんだもの、母《おっか》さんの結《ゆ》った髪なんぞ。」と馳《か》け出したために殊更《ことさら》ほつれた鬢《びん》を直しながら、「おかしいでしょう。」
長吉はただ眼を円くしてお糸の顔を見るばかりである。いつもと変りのない元気のいいはしゃぎ切った様子がこの場合むしろ憎らしく思われた。遠い下町《したまち》に行って芸者になってしまうのが少しも悲しくないのかと長吉はいいたい事も胸一ぱいになって口には出ない。お糸は河水《かわみず》を照《てら》す玉のような月の光にも一向《いっこう》気のつかない様子で、
「早く行こうよ。私《わたい》お金持ちだよ。今夜は。仲店《なかみせ》でお土産を買って行くんだから。」とすたすた歩きだす。
「明日《あした》、きっと帰るか。」長吉は吃《ども》るようにしていい切った。
「明日帰らなければ、明後日《あさって》の朝はきっと帰って来てよ。不断着だの、いろんなもの持って行かなくっちゃならないから。」
待乳山の麓《ふもと》を聖天町《しょうでんちょう》の方へ出ようと細い路地《ろじ》をぬけた。
「何故《なぜ》黙ってるのよ。どうしたの。」
「明後日《あさって》帰って来てそれからまたあっちへ去《い》ってしまうんだろう。え。お糸ちゃんはもうそれなり向うの人になっちまうんだろう。もう僕とは会えないんだろう。」
「ちょいちょい遊びに帰って来るわ。だけれど、私《わたい》も一生懸命にお稽古《けいこ》しなくっちゃならないんだもの。」
少しは声を曇《くもら》したもののその調子は長吉の満足するほどの悲愁を帯びてはいなかった。長吉は暫《しばら》くしてからまた突然に、
「なぜ芸者なんぞになるんだ。」
「またそんな事きくの。おかしいよ。長さんは。」
お糸は已《すで》に長吉のよく知っている事情をば再びくどくどしく繰返《くりかえ》した。お糸が芸者になるという事は二、三年いやもっと前から長吉にも能《よ》く分っていた事である。その起因《おこり》は大工であったお糸の父親がまだ生きていた頃《ころ》から母親《おふくろ》は手内職《てないしょく》にと針仕事を
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