調でこれだけ言って、深く煙草の煙を吸い込んだ。
「え」と菊枝は、声に出しては言わなかったけれども、そんな風な表情で、人なつこい眼を父の方に向けた。
「おめえ、本当《ふんと》に試験を受げんのだごったら、みっしり勉強しなげえなんねえんだ。」
「ほだげっとも……」
菊枝は、父親のあまりに当て外れたこの言葉に、なんと答えていいのか解《わか》らなかった。
「汝《にし》あ、家にいでは、とっても勉強なんか出来ねえんだから、山さ来て勉強しろ。山さ書物持って来て……汝あ伐る分ぐれぇ、父《ちゃん》が伐っから、汝あな一生懸命に勉強しろ。」
父親のこの言葉は、菊枝に取って涙含ましかった。それは、あまりに温かい、涙含ましい言葉であった。
「ほだげっとも……ほだげっとも……」
「何、構うごとねえ。家の人達はあの通りみんな不賛成だげっと、俺だけは、汝《にし》を百姓にしたぐねえと思って……」
「爺様《じんつぁま》や継母《おが》さんは、(家のごどは考えねで、自分ばり楽するごと考えでる)って言うげっとも、俺は稼いだって大したごとも出来ねえから、何が外のごって……」
「そんなごど……汝《にし》あも仲々難儀だ。汝あの実母《がが》も、百姓などしねえげ、まだまだ死ぬのでなかったべ……」
彼は、若くして死んだ愛妻の死の前後を、その哀しむべき半生を心の中で思い描いた。――それは菊枝を生んで間もなく、当然床の中に臥《ふ》していなければならないうちに、ちょうどそれが田植えの時期だったので、無理に田圃へ出たのがもとで、産褥《さんじょく》熱が昂《こう》じ、ひどい出血の後に、忙しい時期にお産をしたことを気にもみながら、夢見心地のうちに死んで行ったのであった。
「俺、月給取るようになったら、毎月なんぼかずつでも家さ送って寄越しべと思って……」
それは菊枝の真情《まごころ》であった。彼女は、同級の誰彼が、みんないろいろの方面へ進んで行って、自分一人が野良に残されたことを悲しく思いはしたが、決して父親の苦しい生活を忘れてはいなかった。自分自身を救うと同時に父親をも、いやそれよりも自分を捨てて父親を助けねばならない……そういう気持ちから受験を思い立ったのであった。
「そんなことは心配しねえでも、まあ、みっしり勉強して……試験を受げさ行ぐ時の旅費ぐらい、父《ちゃん》がなんとかしっから、こっそり行って受げて来い。」
「俺、父《ちゃん》と二人ばりだら、試験なんか受げさ行かねげっとも……」
菊枝の両の眼には、いつの間にか熱い涙が湧いていた。
「父《ちゃん》は、汝《にし》を百姓にしたぐはねえと思って……貧乏さえしてねげ、女学校さもなんさもやりでえのだが、貧乏なばがりに、ろくに書物も買ってやれねえが……」
「ちゃんや! ちゃん!……」
彼女は涙に光る眼を上げて、こう父親を呼んだが、父親のその温かい情に対して、自分の感情をどう表現していいか解らなかった。彼女は、もう、試験を受けずに、手不足な我が家のために一生懸命に働くと言いたかったのだ。
「俺は、汝《にし》を百姓にしたぐねえ。汝も難儀だげっと、そいつばり勉強してる人達と一緒に試験を受げるなんて……まあ明日《あした》からは、山さ書物を持って来て勉強しろ。父が汝あ分まで伐っから……」
松三はこう言いながら、自分の美しかった若い妻が、菊枝の母親が、いかに惨《みじ》めな半生を送ったかを、農村の女達がいかに虐《しいた》げられるかを思った。
太陽はだいぶ西に傾いて、淡い陽脚《ひあし》を斜めに投げだしていた。緑の新芽は思い思いの希望を抱き、榾火《ほだび》はとっぷりと白い灰の中に埋もれていた。
[#地から2字上げ]――大正十五年(一九二六年)『文藝市場』四月号――
底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年10月18日公開
2005年12月21日修正
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