入ってきたのは朝田ではなかった。白い服を着た背の高い、細い身体の男だった。しかし、その男は意外にも彼女に口を開かせてその舌を見たり、胸や腹を撫《な》でたきりだった。――その男は何度来ても、同じことを繰り返すきりだった。ときには黒いゴム管を持ってきて、その先を彼女の腹や胸に押し当てたりすることもあったが、しかし、ただそれだけのことだった。――いったい、このホテルは何を目的に自分をこうして監禁しているのか、彼女には分からない。しかし、彼女の夫も赤ん坊も、同じようにこのホテルのどこかに監禁されているのだ。夫の叫ぶ声が聞こえてくる。赤ん坊の泣き声が心臓を抉《えぐ》りにかかる。彼女は絶えず禍々《まがまが》しい暗示をかけられた。――自分たちをどこかへ売ろうとしているのに相違ない。築港の人柱! このホテルは確かにそういうことを職業としているのだ。――とそのうちに、彼女の夫は突然ホテルから逃げ出してしまった。それを夫の叫び声で知った彼女は、夫と協力して赤ん坊を取り戻すべく逃げ出してきたのだった。
「――あの窓の辺りなのよ。そらね、聞こえるでしょ。そら、あの雲の上から聞こえるの、坊やの泣き声でしょ」
 
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