彼女は手を上げて、晴れかけた靄の上へ蜃気楼のように浮かんでいる高層建築を指した。その指先は白い一本の絹のように小刻みに、敏速に、神経的でしかも恐怖的な顫《ふる》えを顫えつづけていた。
「そらね。あの泣き声、坊やでしょ?――あらっ! とてもかわいそうね。そら、とてもひどく泣いているわ。聞こえるでしょ?」
彼女はじっと耳を澄ました。彼も眉《まゆ》を寄せるようにして耳を立てた。が、冷えびえと顫えている帳のかなたからしてくる雑音を、彼ははっきりと聴き分けることができなかった。
「あらっ! 来たわ! 来たわ! 助けてください! 助けてください! わたしをまた引っ張りに来たのだわ! そら来たわ! 来たわ!」
彼女は突然叫びだして、彼の腕に縋りついた。そこへ、白服の看護婦と黒い半纏の看護人とが五、六人ばたばたと駆けつけてきた。
「今度は、この方を自分の夫だと思っているのだわ」
看護婦の一人は彼女に歩み寄りながら言った。
「男さえ見ると、だれでも自分の夫だと思うんだからな、始末が悪いや」
看護人が笑いながら言った。そして、彼女を引き立てようとした。
「坊やを返してください。坊やと松島を返してく
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