呼んで自動車に走り寄った。しかし、彼女の夫はちょっと彼女のほうに目をくれただけで、自動車は疾走し去った。彼女は大声に夫を呼びながら自動車を追いかけた。そして、彼女は間もなく自動車を見失った。今度は彼女の夫は、鳥打帽に印半纏《しるしばんてん》を着て暗い路地から出てきた。彼女は力の限りその腕に縋りついた。が、彼女の夫は彼女の隙《すき》を見て、彼女を地面に投げだした。そして駆けだした。彼女はすぐに起き上がって、またも夫を追いかけていった。
 彼女の夫はいろいろに姿を変えては、至るところから出てきたのだった。彼女はそれを追って掴まえた。掴まえては放すまいとした。がしかし、彼女の夫はなにかと言っては、至るところで彼女の手から逃げ出した。彼女は追った。夜の明けるまで、彼女は夫を追い回した。
「小母《おば》さん! 小母さん!」
 隣の少女が赤ん坊を抱いて彼女を呼び呼び、泣きながら追いかけてきた。
「小母さん! 赤ちゃんが、赤ちゃんが……」
 少女は彼女に追いついても泣いていた。しかし、哀しいがためではない。あんなにひどい熱を出していた赤ん坊が、無事に熱が引いたからだった。少女はつまり、嬉《うれ》しさ
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