人情も知らない資財の傀儡! そのとおりだと彼女は思った。自分の取引きのために、他人を人身御供《ひとみごくう》にするようなものではないか? そんなことを思って彼女は無理にも自動車を降りようかと考えた。
「とにかく、どうだね? その男に会って話してみる気はないかね? ついでだから」
「せっかくでございますけど、今日は急いでおりますからこのまま失礼させていただきます」
「結婚をする段になりゃ費用はむろん、全部わしのほうで出してあげるがね。……もっとも、近ごろの新しい女は堅苦しい女房よりも気楽な妾宅《しょうたく》暮らしのほうを望んでいるそうだが……」
 自動車は江東ホテルの玄関へ横に着いた。
「すぐだから……」
 朝田は自動車を降りて受付へ行った。そして、ふた言三言の立ち話をして戻ってきた。
「ちょっと、降りていらっしゃい。すぐなそうだけれど、ここに待っていてもつまんないから、お茶でも飲んで……」
「いいえ。わたしはここで失礼させていただきます」
「いや、同じことだから、みっともないから」
 彼女は仕方なく自動車を降りた。そして、駆り立てられるようにしてホテルの階段を上った。
 彼女が泥のように疲労し切った眠りから頭を擡《もた》げたとき、彼女の夫はいつの間にかそこにはいなかった。彼女はたった一人で、ダブル・ベッドの上に犬のように丸くなって寝ていたのだった。彼女は驚いて辺りを見回した。
 しかし、さきほどの出来事は決して夢ではなかったのだ。彼女は何もかもはっきりと記憶している。――最初、朝田が彼女をこの部屋に待たしておいたまま、いつまで経《た》っても戻ってこなかった。彼女は一時間ぐらいは我慢して椅子《いす》にじっと腰を下ろしていた。しかし、熱を出している赤ん坊のことを考えると、全身がぞくぞくしてきた。彼女は動物園の熊のように、部屋の中をぐるぐると歩き回った。彼女はもうたまらなくなってきた。彼女はドアというドアに突き当たってみた。いずれも固く閉まっていた。彼女はどうしても出ようと考え、必死にドアと闘った。そうしているうちに、彼女は北側の窓の上部には金網の張ってないのを見つけた。彼女はテーブルに乗って、そのガラスを一枚|叩《たた》き割った。しかしそこからは首しか出なかった。首を出して街上を見おろすと、偶然にも彼女の夫が通っていた。彼女は夫を大声に何度も呼んだ。夫は上を見上げて手を振った。彼女は夫が助けに来るのを信じて部屋の中をぐるぐる歩き回っていた。間もなくノックの音がして、夫が入ってきた。彼女は感激のあまり言葉が出なかった。夫も黙っていた。二人は抱擁したままベッドに打ち倒れてしまったのだった。――夢ではない。彼女ははっきりと記憶している。
 彼女はもう一度部屋の中を見回した。紫の笠《かさ》をしたスタンド・ランプが目を醒ましていて、薄紫の淡い光が泳ぎ回っているだけだった。彼女の夫はやっぱりいなかった。彼女はベッドの上から飛び降りた。そして、部屋の中を檻《おり》の中の獣のように駆け回った。
 彼女はまたテーブルに乗って、破れたガラス窓から首を出した。街は夜更けらしく、静かになっていた。その時、彼女の背後でノックの音がした。ドアが開いて男の顔が出た。それが真っ白い洋服を着た彼女の夫だった。
「まあっ! あなた! どこへ行っていたの! どこへ行ったの?」
 彼女は飛びついた。が、その瞬間に、彼女の夫は敏捷《びんしょう》にドアの陰に身体を隠した。
「どうしたえ? え? どうしたえ?」
 こう言って、代わりに出てきたのは朝田だった。
「あなた! 行っちゃいけません」
 彼女はドアの陰に隠れた夫を追って、飛び出していこうとした。
「どうしたというんだ? え?」
 朝田は彼女を掴まえて、無理にもベッドのほうへ連れていこうとした。
「放してください。放してください」
 彼女は朝田を曳《ひ》き摺《ず》るようにして荒れ狂った。
「どうしたというんだ? え? きみはそれじゃ、さっきの築港の技師にもそうしたのかい? 困るじゃないか?」
「放してくださいったら!」
 彼女は暴れ回った。彼女は朝田の手を引っ掻いた。彼女は朝田を突き飛ばしておいて、廊下に駆け出した。しかし、夫の姿は見えなかった。彼女は白い足袋|裸足《はだし》のまま、すぐに夜の街上へと駆け出していった。

 彼女は街角で夫に突き当たった。いつの間にか和服に姿を変え、ソフトを目深に冠《かぶ》っていた。彼女はその袂に掴まった。と、彼女の夫は何をするんだ? というような目をして、邪険に彼女の手を振り切って走りだした。彼女は追いかけた。次の四辻街《よつつじがい》まで走っていくと、横から自動車が疾走してきた。その中に、彼女の夫が外套《がいとう》の襟に顔をうずめるようにして葉巻を燻《くゆ》らしていた。彼女は大声に夫を
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