昼・晩の三回ずつ、二十町(二キロ強)あまりの道を歩いて乳房を運んでいった。
彼女の授乳の合間を母親の貧弱な乳房に縋りついている赤ん坊は、乳首が痛くなるほどたちまち彼女の乳を呑み干した。それから二十町あまりの道を歩いて帰るのに、彼女は四十分から五十分、どうかすると一時間近くもかかるのだったが、それだけの時間で彼女の乳は原状に復《かえ》り切れなかった。そして、また三、四時間もするとすぐに豊富な乳房を持っていかなければならなかったので、彼女は自分の赤ん坊にはミルクをもって補ってやらねばならなかった。しかし、彼女はそれをあまり哀しいことに思わなかった。それで自分たちの生活が完全に保証され、子供のうえにも明るい太陽の招来されることが思われるからだった。
彼女は自分と同じ棟の長屋に住む近所の少女を雇って留守を任せ、自分の赤ん坊をその少女に預けては毎日毎日、高台の豪壮な邸宅と貧民窟街《ひんみんくつがい》の襤褸長屋《ぼろながや》との間を往復した。
彼女がそうして朝田《あさだ》社長の邸《やしき》に通いだしてから五日目の朝、彼女の赤ん坊は急に母乳を離れてミルクについたためか、熱を出したのだった。
しかし、彼女は気にはしながらも少女に赤ん坊を任して、朝田の邸へ奉公に出かけた。朝はまだそうでもなかったのが、昼に出かけるときにはもはやひどい高熱だった。けれども、彼女はやっぱり出かけなければならなかった。
彼女は三時の音を聞いて、急いで朝田邸の門を出た。門を出たばかりのとき、背後で自動車の音がした。自動車が急停車をしたのだった。それには主人の朝田が乗っていた。
「松島さん、あんたの家は工場へ行く途中じゃったね。どうせ通りがかりじゃから、さあここへ乗っていきなさい」
朝田は窓から首を出して言った。
「…………」
彼女は微笑《ほほえ》みながらお辞儀をしただけで躊躇《ちゅうちょ》した。
「なにも遠慮はいらんのだ。どうせ通りがかりじゃから、さあ遠慮することはないんだから」
「…………」
彼女はまたお辞儀をした。
「さあ、構わんからここへ乗んなさい」
「では、失礼でございますけど……」
彼女はまず自分の赤ん坊のために喜んだ。かつて自分の夫が、彼らは血も涙も持たない資財の傀儡《かいらい》だ! と罵倒《ばとう》した言葉はまったく反対な作用で彼女に働きかけていた。彼女は血も涙もある人間の前に、小さな感謝の塊になっていた。
「松島さん、あなたは、失礼な言い分かもしれないが、ひどく困っていやしないかね?」
「…………」
彼女は頷《うなず》くようにお辞儀をした。
自動車は白い土埃《つちぼこり》を上げ、乾燥し切った秋の空気を切って日照りの街中を走った。
「困っているんだったら、だれかの世話になってもいい気はないかね?」
「…………」
「あんたはそれほどの美貌で、相当の教養もあって……しかし、女の人が自分一人でやっていくということはなかなか大変なことだろうからな。……あんたが再婚をしてもいい気持ちがあるのなら。それよりむしろ……」
「なにしろ、子供があったりするものですから」
彼女は、いくらか顔も赤くしていた。
「子供があったって、それは構わん。子供があるにつけても、再婚をするより、まあちゃんと一家を持たしてもらって、世話になったほうがどれほどいいかしれん」
「…………」
彼女は朝田の話を横道に逸《そ》らし得る自信を持てなかった。失礼な! 失礼な! と心の中で叫びつづけながら、彼女は黙りつづけた。
「運転手! ちょっと、江東《こうとう》ホテルへ回ってくれ」
「あら! そちらへお回りでございましたら、わたし、ここで失礼させていただきますわ」
彼女は驚きの目で見上げた。そこから彼女の家までは、自動車が江東ホテルまで走る時間で充分歩いていけるからだった。
「回ったってすぐだ。ちょうど北海道のある築港から、急行セメントの検査に来た技師が江東ホテルに泊まっているものだから、ちょっと寄って、一緒に行ってもらうだけのことなんで……」
「でも、わたし急いでいるのでございますから」
しかし、自動車は彼女の言葉には耳も傾けずに、人通りの少ない河岸の大道路を折れて疾走しつづけた。彼女は気が気でなくなった。熱を出している赤ん坊のことが心配で心配でたまらないのだ。しかし、それは秘密を要することだと彼女は考えた。熱を出している子供の傍《そば》から通うことが、彼らの衛生観念の許すべきところでないと思ったからだった。
「その築港の技師のことで思い出したのだが、松島さん、あんたはその人と結婚をする気はないかね? あんたがそれを承知してくれりゃ、それでセメントの調査のほうはもう問題なしじゃがなあ! 無検査で採用されるんだが!」
彼女はまた、夫が彼らを罵倒していた言葉を思い出した。恥も
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