あなた! あなた! あなた」
 彼女は夫を追いかけた。眠り人形のように眠りつづけている赤ん坊を抱いて、彼女は駆けられるだけ駆けた。
 敷石道は地球儀の腹のように碁盤縞《ごばんじま》を膨れ上がらせていた。街の高層建築はその両側からいまにも倒れそうな鋭角の傾斜を見せて、円形・三角・楕円形《だえんけい》・四角、さまざまな帽子の陳列のように頭を並べていた。
 列から乱れている一つの小さな楕円形の頭の建物の前で、彼女は黒い服を着た男に捕まった。
「何をするんです? 放してください! 放してください!」
 しかし、黒い服の男は彼女を放さなかった。彼女は犬に咥《くわ》えられた鳥のように暴れ回った。黒い服の仲間は銀色に光る長い棒をがちゃがちゃさせながら、幾人も寄ってきた。彼女はそれが朝田の手足であることを悟って、いまのうちにどうかして逃げようと焦った。
「放してください! 何をするの? 放してちょうだい?」
 彼女は黒い服の仲間から逃れようとしてさんざん暴れた。その手を滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に引っ掻いてやった。が、黒い服の仲間はどうしても彼女を放さなかった。そればかりでなく、黒い服の仲間は彼女から赤ん坊まで奪った。完全に奪っていった。そして、彼らは朝田の命令で、朝田の待っているホテルへ彼女を連れていこうとするのだった。――しかし、黒い服の仲間は彼女があまりひどく暴れたため、朝田の待っている江東ホテルヘは連れていけなかった。その代わり、彼女を近くの他のホテルへ連れていった。
 そこのホテルは牢獄《ろうごく》のように頑丈だった。女中はみんな白い服を着ていた。黒い服を着た下男が幾人もいた。彼女は大勢の手で、ある一室に投げ込まれた。――どこからか夫の声がしてきた。赤ちゃんの泣く声もする。眠っていたのが、あんなに乱暴されたので目を醒ましてしまったのだ。――彼女は朝田が来ないうちに、どうかして逃げ出さねばならないと思った。
 そのうちに、黒い服の下男と白い服の女中とが、どかどかと入ってきた。――彼女を朝田の部屋へ連れていくのに相違ないのだ。彼女は抵抗した。暴れ狂った。――しかし、相手は多勢だ。彼女を他の部屋へ運び出すと、裸にしてそこの真っ白いベッドの上に革紐《かわひも》で固く縛りつけた。彼女はもはや、そのまま朝田の蹂躪《じゅうりん》に任すよりほかに仕方がなかった。
 ところが、思いがけもなく
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