入ってきたのは朝田ではなかった。白い服を着た背の高い、細い身体の男だった。しかし、その男は意外にも彼女に口を開かせてその舌を見たり、胸や腹を撫《な》でたきりだった。――その男は何度来ても、同じことを繰り返すきりだった。ときには黒いゴム管を持ってきて、その先を彼女の腹や胸に押し当てたりすることもあったが、しかし、ただそれだけのことだった。――いったい、このホテルは何を目的に自分をこうして監禁しているのか、彼女には分からない。しかし、彼女の夫も赤ん坊も、同じようにこのホテルのどこかに監禁されているのだ。夫の叫ぶ声が聞こえてくる。赤ん坊の泣き声が心臓を抉《えぐ》りにかかる。彼女は絶えず禍々《まがまが》しい暗示をかけられた。――自分たちをどこかへ売ろうとしているのに相違ない。築港の人柱! このホテルは確かにそういうことを職業としているのだ。――とそのうちに、彼女の夫は突然ホテルから逃げ出してしまった。それを夫の叫び声で知った彼女は、夫と協力して赤ん坊を取り戻すべく逃げ出してきたのだった。
「――あの窓の辺りなのよ。そらね、聞こえるでしょ。そら、あの雲の上から聞こえるの、坊やの泣き声でしょ」
 彼女は手を上げて、晴れかけた靄の上へ蜃気楼のように浮かんでいる高層建築を指した。その指先は白い一本の絹のように小刻みに、敏速に、神経的でしかも恐怖的な顫《ふる》えを顫えつづけていた。
「そらね。あの泣き声、坊やでしょ?――あらっ! とてもかわいそうね。そら、とてもひどく泣いているわ。聞こえるでしょ?」
 彼女はじっと耳を澄ました。彼も眉《まゆ》を寄せるようにして耳を立てた。が、冷えびえと顫えている帳のかなたからしてくる雑音を、彼ははっきりと聴き分けることができなかった。
「あらっ! 来たわ! 来たわ! 助けてください! 助けてください! わたしをまた引っ張りに来たのだわ! そら来たわ! 来たわ!」
 彼女は突然叫びだして、彼の腕に縋りついた。そこへ、白服の看護婦と黒い半纏の看護人とが五、六人ばたばたと駆けつけてきた。
「今度は、この方を自分の夫だと思っているのだわ」
 看護婦の一人は彼女に歩み寄りながら言った。
「男さえ見ると、だれでも自分の夫だと思うんだからな、始末が悪いや」
 看護人が笑いながら言った。そして、彼女を引き立てようとした。
「坊やを返してください。坊やと松島を返してく
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