呼んで自動車に走り寄った。しかし、彼女の夫はちょっと彼女のほうに目をくれただけで、自動車は疾走し去った。彼女は大声に夫を呼びながら自動車を追いかけた。そして、彼女は間もなく自動車を見失った。今度は彼女の夫は、鳥打帽に印半纏《しるしばんてん》を着て暗い路地から出てきた。彼女は力の限りその腕に縋りついた。が、彼女の夫は彼女の隙《すき》を見て、彼女を地面に投げだした。そして駆けだした。彼女はすぐに起き上がって、またも夫を追いかけていった。
彼女の夫はいろいろに姿を変えては、至るところから出てきたのだった。彼女はそれを追って掴まえた。掴まえては放すまいとした。がしかし、彼女の夫はなにかと言っては、至るところで彼女の手から逃げ出した。彼女は追った。夜の明けるまで、彼女は夫を追い回した。
「小母《おば》さん! 小母さん!」
隣の少女が赤ん坊を抱いて彼女を呼び呼び、泣きながら追いかけてきた。
「小母さん! 赤ちゃんが、赤ちゃんが……」
少女は彼女に追いついても泣いていた。しかし、哀しいがためではない。あんなにひどい熱を出していた赤ん坊が、無事に熱が引いたからだった。少女はつまり、嬉《うれ》しさのあまりに泣いていたのだった。
「坊や! 坊や! 病気が治ったの? 治ったの? 坊や! よかったわね」
彼女はぐったりとしている赤ん坊の頬をぶるんぶるんさせてあやしたけれども、赤ん坊は気持ちよさそうにぐったりと眠りつづけていて、決して笑いだしもしなければ目さえも動かさなかった。
「坊や! どうして笑わないの?」
「小母さん! 赤ちゃんはね、赤ちゃんはね……」
少女は啜り泣きながら、何か言おうとしていた。そこへ鳥打帽が覗《のぞ》き込んだ。彼女の夫だ。赤ん坊の父親なのだ。彼女の手からは逃げつづけていても、自分の子供の顔は見たいのだろう。あれほど忙《せわ》しく逃げていたのがいつの間にか戻ってきて、赤ん坊の顔を覗き込んでいるのだ。
「あなた! まあ、あなたという人はなんて方でしょう? さあ、逃げ回ってばかりいないで、少し坊やを抱っこしてやってちょうだい」
彼女は夫に赤ん坊を突きつけた。夫は怪訝《けげん》そうな目で彼女を見た。土佐犬のような顔! が、その犬のように尖《とが》った口を急に侮蔑《ぶべつ》の笑いに歪《ゆが》めて彼女の夫は駆けだした。
「あなた! 逃げちゃ駄目よ! どこへ行くの?
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