振った。彼女は夫が助けに来るのを信じて部屋の中をぐるぐる歩き回っていた。間もなくノックの音がして、夫が入ってきた。彼女は感激のあまり言葉が出なかった。夫も黙っていた。二人は抱擁したままベッドに打ち倒れてしまったのだった。――夢ではない。彼女ははっきりと記憶している。
 彼女はもう一度部屋の中を見回した。紫の笠《かさ》をしたスタンド・ランプが目を醒ましていて、薄紫の淡い光が泳ぎ回っているだけだった。彼女の夫はやっぱりいなかった。彼女はベッドの上から飛び降りた。そして、部屋の中を檻《おり》の中の獣のように駆け回った。
 彼女はまたテーブルに乗って、破れたガラス窓から首を出した。街は夜更けらしく、静かになっていた。その時、彼女の背後でノックの音がした。ドアが開いて男の顔が出た。それが真っ白い洋服を着た彼女の夫だった。
「まあっ! あなた! どこへ行っていたの! どこへ行ったの?」
 彼女は飛びついた。が、その瞬間に、彼女の夫は敏捷《びんしょう》にドアの陰に身体を隠した。
「どうしたえ? え? どうしたえ?」
 こう言って、代わりに出てきたのは朝田だった。
「あなた! 行っちゃいけません」
 彼女はドアの陰に隠れた夫を追って、飛び出していこうとした。
「どうしたというんだ? え?」
 朝田は彼女を掴まえて、無理にもベッドのほうへ連れていこうとした。
「放してください。放してください」
 彼女は朝田を曳《ひ》き摺《ず》るようにして荒れ狂った。
「どうしたというんだ? え? きみはそれじゃ、さっきの築港の技師にもそうしたのかい? 困るじゃないか?」
「放してくださいったら!」
 彼女は暴れ回った。彼女は朝田の手を引っ掻いた。彼女は朝田を突き飛ばしておいて、廊下に駆け出した。しかし、夫の姿は見えなかった。彼女は白い足袋|裸足《はだし》のまま、すぐに夜の街上へと駆け出していった。

 彼女は街角で夫に突き当たった。いつの間にか和服に姿を変え、ソフトを目深に冠《かぶ》っていた。彼女はその袂に掴まった。と、彼女の夫は何をするんだ? というような目をして、邪険に彼女の手を振り切って走りだした。彼女は追いかけた。次の四辻街《よつつじがい》まで走っていくと、横から自動車が疾走してきた。その中に、彼女の夫が外套《がいとう》の襟に顔をうずめるようにして葉巻を燻《くゆ》らしていた。彼女は大声に夫を
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング