んの枕元へ撰《と》り出した。
「あ、爺様や、こんなごどしねえだって。」
「ほんとに少しばりだげっとも。――ほう、かれこれ正午《おひる》だ。どうも日が短けくて。」
「まるで、馬の手綱《たづな》のような……」とお美代は、弥平爺の財布の紐《ひも》の太いのを笑った。
障子を押し開いて、お美代は縁側に弥平爺を見送った。お婆さんは、額縁に嵌《は》められた風景画のような秋色の一隅を、ぼんやりと、潤《うる》んだ眼に映していた。
「ね、おめえも、早く帰《けえ》んでえすぞ。俺も若《わけ》え時、婿《むこ》に行ったどこ逃げ出した罰で、今になってこれ……」
庭先で弥平爺は、こう、お美代に言っていた。
「なんぼ貧乏しても、田作る百姓、飯だけ喰えんだから。ね、早く帰って、辛《つれ》えくっても、辛《つら》くて死ぬようなごとねえんだから、悪いごど言わねえ、辛抱していんでえす。」
弥平爺は、この言葉を、お美代のために言い残して帰って行った。併し、この言葉は、お婆さんも遠い昔の記憶の上に、現実とかけはなれた不思議な韻《いん》で聞き返すことが出来た。
四
その晩、お美代が隣の風呂から帰って来た時、お婆さんは雨戸を繰《く》り開《あ》けて、縁側に蹲《しゃが》んでいた。月光に濡れて、お婆さんの顔はなお、一入《ひとしお》蒼白かった。
「そんなところで、何しているの? 婆《ばば》さんは。」
お美代は、雨戸に手をかけてその後ろに立った。
「柿の葉も、皆落ちでしまったなは。」
お美代も、お婆さんと一緒に戸外の景色を眺めた。――実をもぎ取られた柿の樹は、その葉も大方振り落として、黒い枝が奇怪なくねりを大空に拡げていた。柿の樹の下に並んだ稲鳰《いなにお》の上に、落ち散った柿の葉が、きらきらと月光を照り返している。桐の葉や桑の葉は、微風さえ無い寂寞《せきばく》の中に、はらはらと枝をはなれている。遠くの木立ちは、すべて仄《ほの》黒く、煙りだっていた。そして、丘裾の部落部落を、深い靄《もや》が立《た》ち罩《こ》めていた。
「婆さん。風邪《かぜ》引ぐど大変だから。」
お美代は、いつまでも戸外の風景に眼を据えているお婆さんを促《うなが》した。
「うむ。――今年は、稲鳰《いなにお》、六つあげだようだな。小作米出した残りで、来春《らいはる》までは食うにいがんべな。」
「鳰一つがら、五俵ずつ穫《と》れでも……婆さん、そんな心配までしねえだって。さあ、風邪引ぐがら。」
「うむ。小便しさ起ぎだのだげっとも、動がれなくなったはあ。――俺、米の無くならねえうぢに死にでぇんだ……」
「そんなごと言って、まだ死んでられめちゃ、婆さん。」
お美代は、蹲《しゃが》んでいるお婆さんを、後ろから、室の中に抱き入れた。
床の中は冷たくなっていた。夜の冷気は犇々《ひしひし》と身に迫って来た。お婆さんは、両足を縮《ちぢ》めて、小さくなって見たが、やはりぞくぞくするばかりであった。だが、寝床の中で震えながらも三十分間ばかり我慢して見た。
併し、お婆さんは、いつまで経っても、もう寝床に親しむことが出来なかった。このまま凍り付いてしまいそうにさえ思われた。
「松! 松! 松やあ!」
お婆さんは、お美代を起こす気にはなれなかった。
「松やあ! お湯わかして呑ませで呉《け》ろ。」
併し、誰も返事をしてくれるものは無かった。お婆さんはまた自分の寝小便を思い出した。眼だけが温かくなって来た。
しばらくすると、誰か囲炉裏《いろり》の方へ起きて行く気配がした。お婆さんは耳を澄ました。足音は戸外へ出て行った。ごくりと唾を嚥《の》み下《くだ》して、お婆さんは出来るだけ小さく身を縮めた。
静寂《せいじゃく》な闇の中に、やがてハリハリと杉の枯れ葉の燃える音がした。続いて枯れ柴のパチパチと燃え上がる音がして来た。
「婆《ばば》さん、今すぐわぐがらね。」
お美代が、自分の家で拵《こしら》えた粗末な燭台を手にして這入《はい》って来た。お婆さんは、感謝の念だけで口がきけなかった。その灰色にまで垢染《あかじ》みた枕は、ぐっしょり濡れていた。
「なんだけな婆さんは、枕、こんなに濡らして……」
お美代はこう言って、お婆さんの白髪頭を持ち上げ、濡れた枕を裏返しにしてやった。
「すぐわぐがら……」
お美代はすぐ囲炉裏端へ引き返した。
台所で器物を探す音がしばらくしていた。そしてお美代の持って来た茶碗の中には、その底にぽっつり味噌が入っていた。
「味噌湯の方、身体《からだ》温《あった》まっていがんべから……」
お婆さんは床の上に起きかえって、茶碗を、両手で捧げるような手付きで、フウフウと吹きさましながら、続けて二杯も呑んだ。
「ああ、美味《うま》がった。甦《いきげ》えったようだちゃ。身体も温《あった》まって……」
「ほ
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