が百姓をしたがっていると言うこと以外に、なんのことか判然とは解らなかった。
「百姓もこれ、やって見れば、別《べっ》して宜《え》いもんでもがいんね。朝から晩まで、真黒になって稼《かせ》いで!」
「僕には、それがいいんですよ。なんの心配もなく、真黒になって働いて、第一|暢気《のんき》だからね。」
「そうでがすかね。あんまり暢気でもがいんがな。まあ、やって見さいん。」
「百姓の生活が暢気でねえなんて……。僕は、考えただけでも愉快ですけれどね。」
こう言って、竜雄は微笑みながら梅三爺の顔を見た。
三
太陽はいつか西に傾いていた。この季節特有の薄靄《うすもや》にかげろわれて、熟《う》れたトマトのように赤かった。そして、彼方此方《かなたこなた》に散在する雑木の森は、夕靄の中に黝《くろず》んでいた。萌黄《もえぎ》おどしの樅《もみ》の嫩葉《ふたば》が殊に目立った。緑のスロープも、高地になるに随って明るく、陰影が一刷毛《ひとはけ》に撫で下ろされた。蘆《あし》の叢《くさむら》の多い下の沢では、葦切《よしき》りが喧《やかま》しく啼《な》いていた。
「父《おど》! 俺《おら》、家《うち》さ行ぐでは。お飯《まんま》炊《た》く時分だからは……」
父親の傍で、黙って聞いていたヨーギは、急に起《た》ち上がった。
「ああ。火を気付けでな。」
「俺《おら》も、兄《あん》つあんと行ぐは。」と一人で土を弄《いじく》って遊んでいたよし[#「よし」に傍点]が、土煙の中から飛び出してヨーギの方へ駈けて行った。
「うむ。うむ。」と梅三爺は、それにも返事を与えた。
「よく飯《めし》が炊けますね。」竜雄は心からの驚きの表情を示して。
「なあに、母親《がが》がいねえもんだから……」
「それにしても、よくまあ……。やっぱり[#「やっぱり」は底本では「やっぽり」]百姓の生活はいい。僕なんかも、小さい時から百姓をさせられたら……」――彼は自分の、恵まれ過ぎた幼時の生活を考えて見ずにはいられなかった。「僕なんかの小さい時は、全く泣くこときり知らなかったんだからね。」
「学校さだけは、もう少し、六年生まででも、尋常科だけでも卒業させでえと思ったのでがすが、何しろ私等《わしら》は、帳面一冊買ってやんのだって、なかなか大変なのでがすからは……ほんでも、四年生までやったのでがすげっとも、手紙一本書けねえんでがすから……。市平どこさ、手紙やりでえど思っても、その手紙が書けねえって言うんでがすから……」
梅三爺の訴えは涙含《なみだぐ》ましかった。
「市平君は、今どこにいるね?」
「あの放浪者《のっつお》は、今、北海道の、十勝の……先達《せんだって》手紙寄越して、表書きはあんのでがすが。――なんでも線路工夫してる風でがす。」
「ほう、線路工夫! ――市平君でもいれば、梅三|爺様《じいつぁま》も、随分助かるのにな。」
「ほでがす。あの放浪者《のっつお》がいれば……。連れ寄せべと思っても、なったら帰《けえ》って来がらねえし、今度は、親父が急病だってでも、言ってやんべかと思っていんのしゃ。」
「そりゃ、どうかして呼んだ方がいいね。いつまでも工夫していられるもんでもないし。――僕が一つ、きっと帰ってくるように、手紙を書いてやろうかな?」
竜雄はにやにやと笑った。
「どうぞは、お願いでがすちゃ。」と、梅三爺は二度ばかり頭を下げた。
四
竜雄が、市平に宛てた手紙を書いてから一週間目、市平は颯然《さつぜん》として帰ってきた。
その日のその時も梅三爺は開墾場で働いていた。飯を炊きに帰った養吉が、「兄《あん》つあんが帰って来たぞう!」と叫びながら駈けて来たので、梅三爺は唐鍬《とうぐわ》を担《かつ》いで、よこらよこらと自分の小屋へ帰って来たのであった。
「あ、市平だで……」
「うむ。父《おど》病気だぢゅうがら……」
市平は長靴を脱ぎ、炉傍《ろばた》にあぐらをかいて、巻き煙草を燻《くゆ》らしているところであった。
「病気ではねえのだげっとも、俺《おら》もこれ……」
梅三爺はその後を言い続けられなかった。嬉しい気持ちなのか、それとも涙なのか、胸にこみあげて来るものが、梅三爺の言葉を遮《さえぎ》った。
市平は、三年前に夜逃げをして行った時の彼とは、すっかり変わっていた。油に光沢を蓄えた髪を長くし、口髭を生やしていた。村の人々や父親を考えの中に入れて、知人の駅夫から借りて来た小倉の服には、五つの銀釦《ぎんぼたん》が星のように光っていた。保線課の詰め所に出入りする靴屋から、一カ月一円五十銭払いの月賦で買った革の長靴は、彼の予期通り、村の人々をも父親をも驚かした。
「これは市平、とっても立派な長靴でねえがや。巡査様《おまわりさま》の長靴だって、こんなに光んねえものな。」と、梅三爺は土まみれの、大きなごつごつした足を、それに突っ込んで見ようとした。
「父《おど》! 駄目だ、父《おど》。足さ合わせて拵《こせ》えだのだがら、父《おど》足さなど這入《へい》んねえがら……」
「ほだべがな。俺《おら》足は生来《うまれつき》、靴なんか穿《は》ぐように出来でねえんだな。」と言いながら、半分ほど穿いたのを、梅三爺は難儀して脱いだ。
「天王寺あたりの人達、この長靴、じろじろど見でだけちゃ。」
こう言って市平は、ポケットから「敷島」の袋を取り出した。
「ほださ。ここらへんに、これだけの長靴、持ってる人は無《ね》えもの。――巻き煙草は強くてな。」
併し、梅三爺は一本抜きとった。
市平も梅三爺も、村の人達の、「市平も、偉ぐなったもんだな。」という声を、自分の耳底に聞くような気がした。――梅三爺は、自分の伜ながら、市平があまりに偉くなってしまったような気がした。それは悦びばかりではなかった。爺は肝心な用事、市平を再び百姓の生活に引き戻すことについて言い出すことが出来なかった。
夜になって、色|褪《あ》せた一張の襤褸蚊帳《ぼろがや》が吊られた。市平にはそれが、なんとなく懐《なつか》しかった。涙含《なみだぐ》ましくさえ思われた。そして親子四人は、暫くぶりで一枚の布団《ふとん》にもぐりこんだのであった。ヨーギとよし[#「よし」に傍点]とは、昼の疲れですぐ眠ってしまった。併し、梅三爺も市平も、心が冴えているようで、それに蚤《のみ》がひどいので、なかなか眠ることが出来なかった。二人は長い間、寝返りを打ち続けていた。
「父《おど》も、一人では、ながなが大変だべな。」
市平は、こう父親に話しかけた。
「うむ。ほんでな、俺《おら》は市平に、貴様が、せっかく出世しかけだどこだげっとも、一つ家《うち》へ戻ってもらうべかと思ってな。ほんで……」
梅三爺は遠慮勝ちな調子で言った。市平は、暫くの間黙っていたが、やがて、しんみりとした調子で言った。
「ほだら父《おど》、父《おど》も北海道さ行がねえが? 北海道さ行って、鉄道の踏切番でもすれば……! 踏切番はいいぞ、父《おど》!」
「鉄道の踏切番? 洋服《ふぐ》着て、靴はいでがあ? 俺《おら》に出来んべかや?」
「なんだけな、あんなごと、誰にだって出来る。汽車来た時、旗出せばいいのだもの。」
「ほだって俺《おら》、洋服《ふぐ》着たり、靴穿いだりして、お笑止《しょうし》ごったちゃ。」
「父《おど》は馬鹿なごどばり言って……」
市平は尚、踏切番という仕事が、年寄りに取って、いかにいい職業であるかを説いた。自分達親子で、官舎の一部を借りることが出来るから、そして二人で月給を取れば、どんなに裕福であるか知れないこと、被服などももらえるし、第一物価が廉《やす》いことなどを細々《こまごま》と話した。
「一体、開墾して、父《おど》、一日なんぼになっけな。」
「ほだなあ、汝《にし》いだ頃から見れば、坪あだり五厘ずつあがったがら、七十五銭ぐらいにはなんのさな。天気がよくて、唐鍬《とうぐわ》せえ持って出れば、十六七坪は拓《おご》すから。」
「十六七坪も拓《おご》すの、なかなか骨だべちゃ?」
「うむ。ここは、開墾賃《おごすちん》もいい代わり、一鍬拓《ひとくわおご》すでねえがらな。深掘りだがんな。」
「踏切番は、初めの中は日給五十銭ぐらいなもんだげっとも、仕事は楽なもんだで、父《おど》!」
「五十五銭だっていいさ。日を並べられるもの。俺《おら》など、天気の悪《わり》えどぎ出来ねえがら、そうさな、一日四十銭平均にもなんめえで、きっと。」
市平は闇黒《あんこく》の空間を凝視《みつ》めたきり、暫く黙っていた。米一升が三十銭近い価《あたい》を持っているのに、一家三人の家族が、一日四十銭で、よく生きて行けるものだと、昔は自分もそうした生活の中にあったのだが、今の市平には不思議に思われる程であった。十年間は無料、その後は永小作《えいこさく》制度を約束された一|段歩《たんぶ》程の土地を小屋のまわりに持っているのだが、梅三爺一人の手では、屋敷として使う以外、大した収穫を上げることは出来なかった。市平は長い沈黙の後に言った。
「ほだから父《おど》、北海道さ、俺と一緒に行げばいいんだ。」
「ほだって俺《おら》、北海道の土になってしまうの厭《やん》だな。いつ帰《けえ》りたくなるが判んねえし、今ここを去《しゃ》ってしめえば、俺《おら》はこれ、自分の家というものは、無くなってしまうのだかんな、これ。」
「ここだって、自分の土地でもあるめえし、どこさ行ったって同じでねえがあ父《おど》!」
「ほんでもさ。ここにいれば、これで、一生、誰も去《しゃ》れどは言わねえがんな。――天王寺の春吉《はるきち》らなど皆土地売って行って、今じゃ、帰《けえ》って来たがっていっちが、ほんでも帰《けえ》って来ることが出来ねえのだぢゅうでや。なんちたって、生まれだ土地が一番いいがんな。何《なん》が無《ね》えたって……」
話が暫く途絶《とだ》えた。市平も何も言わなかった。ただ涙含ましい空気が漂《ただよ》った。
「ほんでは父《おど》、俺《おら》、毎月《まいげつ》五円ずつ送って寄越すから。――毎月五円ずつ。」と言って市平は、顔の火照《ほて》るのを覚えた。
「そうが。ほんでは、父《おど》も辛抱して、汝《にし》あ出世して帰《けえ》るまで、ほんの少しでも、自分の土地だっちもの買って置くがんな。」
彼等は、永小作の土地だけでは満足が出来なかった。――市平は何も答えなかった。併し、悲しい別れは再び約束された。
五
梅三爺はなかなか暇がなかった。せっかく市平が帰って来たのに、そして再びの北海道行きが約束されているのに、ゆっくりと話をする暇も無かった。薄暗い小屋の中に市平を残して。やはり唐鍬を担《かつ》いで朝早くから出て行かなければならなかった。
「少し休んだら? あ、父《おど》!」
市平がこう言ったのは、彼が帰って来てから三日目の朝だった。
「ほんでもな、天気がいいがら、少し稼いで来《こ》んべで。――まだ、話は晩にでも出来んのだから……」
「俺《おら》は父《おど》、明日の朝|出発《たつ》のだで。」
「明日の朝? 魂消《たまげ》た早えもんだな。もう少しいでも宜《よ》かんべどきに……」
梅三爺は爛《ただ》れた眼をぱちくりさせながら、一度手にした唐鍬を置いて、炉傍《ろばた》に戻って来た。そして煙管《きせる》をぬき取った。
「ほだって、俺も忙しいがんな。みんな待ってべがら。」
「なんぼ忙しくたってさ。」
梅三爺は少しむっとしたようであった。
「天王寺の竜雄さんなんざ、百姓に限るって、あの人達こそ百姓などしねえでもいい人達なんだが、ほんでもあれ、生まれた土地がいいどて、ああして帰《けえ》って来てんのだぢあ……。どういうわけだべな? 汝《にし》は、他国さばり行ぎだがって……。俺《おら》もこれ、近頃は弱ってしまって……」
梅三爺の爛《ただ》れた眼には涙が湧いて来た。それが静かに頬の上にあふれて来つつあった。
「俺《おら》だって父《おど》、好ぎで行ぐわけでねえちゃ。竜雄さん等みてえに、自分の好ぎなごとしていで、ほんで暮らしが出来っこったら、父ど
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