土竜
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)灌木《かんぼく》と
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一鍬|毎《ごと》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く
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一
灌木《かんぼく》と雑草に荒れた叢《くさむら》は、雑木林《ぞうきばやし》から雑木林へと、長い長い丘腹《きゅうふく》を、波をうって走っていた。
茨の生える新畑《あらばたけ》は、谷から頂へ向けて、ところ斑《まだら》に黝《くろず》んでいた。
梅三爺《うめぞうじい》の、一坪四銭五厘で拓《ひら》く開墾区域は、谷のせせらぎに臨んで建った小屋の背後《うしろ》から続いていた。
今は緑の草いきれ。はちきれるばかりの精力に満ちた青草は、小屋の裏から起こるなだらかなスロープを、渦を巻き巻き埋《うず》めつくしていた。青草の中には紅紫の野薊《のあざみ》の花が浮かびあがり、躑躅《つつじ》の花が燃えかけていた。そして白い熊苺の花は、既に茅《かや》の葉にこぼれかけていた。無理に一言の形容を求めれば、緑の地に花を散らした大きな絨毯《じゅうたん》であった。そして、開拓されたところは黒々と、さながら墨汁をこぼしたかのように、一鍬|毎《ごと》に梅三爺の足許から拡がって行った。
「父《おど》! この木、惜《いだま》しいな。熊苺の木だで……」
養吉《ようきち》は鎌で、小さな灌木を叩いて見せた。
「ヨッキは、まだそんなごとばり。そんな木、なんぼでもある。」
「なあ、父《おど》!」
五歳《いつつ》になるよし[#「よし」に傍点]が追従《ついしょう》した。
養吉は、ちらとよし[#「よし」に傍点]の方を睨むようにしたが、自分も否定していたと言うように、すぐに惜し気もなく鎌を入れた。
養吉は三年前に母を失って以来、父の自分を呼ぶ呼び方によって、父の気持ちを解することが出来た。「ヨーギャ」と呼ぶ時は、一番寛大な時である。「ヨーギ」と呼ぶ時も、「ヨギッ」と呼ぶ時も、まだそれ程おそれることはないが、例えば今のように、「ヨッキ」と焦げつくように言う時、もしそれに少しでも抗《さから》ったら、すぐに黒土を打付《ぶつ》けられるのに相違ないのだ。
併しヨーギは十二の少年ながら、一層元気に、草を刈り灌木を伐り倒して、父親の鍬先を拓《ひら》いて行った。よし[#「よし」に傍点]は黒奴《くろんぼ》の小娘のように、すっかり土にまみれながら、父親が土の中から掘り出した木の根を、一本ずつ運んで行って、冬籠りの薪を蒐《あつ》める役を、自ら引き受けていた。
梅三爺は、自慢の重い唐鍬《とうぐわ》を振り上げ振り下ろしながら、四年前に、――この村にいたのでは、何時《いつ》まで経ってもうだつ[#「うだつ」に傍点]があがらないから、どこか、遠くへ行って、一辛抱《ひとしんぼう》して、自分の屋敷だという地所を買い求めるぐらいの小金でも、どうにかして蓄《た》めて来たいと思うから。――という書き置きをして行方《ゆくえ》を晦《くら》ました伜《せがれ》の市平《いちへい》のことを思い続けた。「あの野郎も、手紙ではいいようなごとを言って寄越したが、どんなごどをしてがるんだか? 天王寺《てんのうじ》の竜雄《たつお》さんなんざあ、中学校を出て、東京で三年も勉強してせえ、他所《よそ》さ行ったんじゃ、とっても駄目だって帰って来たじゃ。あの野郎も、帰って来っといいんだ。」梅三爺は今日もこんなことを思い続けているのであった。
市平がいなくなって以来、彼のことは殆んど思い諦《あき》らめ、折々思い出しても、ただ身の上を案じているに過ぎなかったのだが、最近になって、ああして手紙を寄越されて見ると、梅三爺は市平を呼び寄せたいような気がした。腰が痛み、身体《からだ》が草臥《くたび》れるにつけても、「あの野郎せえいれば、俺もこれ、じっかり楽なんだが……」と思わぬわけには行かなかった。世間の噂が、竜雄と市平とをいい対照にしているように、それは梅三爺の心からも離れないことであった。
「畠おこすがね?」と遠くから、聞き慣れない声で呼び掛けるものがあった。
梅三爺は唐鍬の柄《え》を突っ立て、その声のする方を見た。誰かが此方《こっち》に近付いて来た。併し冬籠りの小屋に漂う煙と、過激な労働の疲労で、すっかり視力の衰えた、赤く爛《ただ》れた彼の眼は、判然とそれを見ることが出来なかった。
「ヨーギ。誰だ?」
梅三爺は、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く眼と共に口まで開いて、低声《こごえ》でこう訊《き》いた。
「誰だべ? ――郵便配達《ゆうびんへえたつ》であんめえが?」
「なに? 配達《へえたつ》? ほんではまだ、兄《あん》つあんどこがらでも来たがやな。」
「なんだ? 巡査様だがもしせねえ。」
養吉は、雑草の中から伸びあがった。
「なんだど? 巡査様だど?」
その訊き方はちょっと狼狽《あわて》ていた。同時に梅三爺の顔には、さっと不安の表情が流れたようであった。「市平が、何か悪《わり》ごどでもしたのであんめえがな?」と彼は思ったのであった。彼は、伜《せがれ》の市平のことについては、ただそればかりが気になっているのであった。
「巡査様、なにしに来たべな?」と、梅三爺は不安の中から繰り返した。
「白いズボンはいで、黒い服だげっとも……巡査様でねえがな?」
よし[#「よし」に傍点]はぽかんと口をあけて、雑草をわけて近付いて来る白ズボンの人を、背伸びをして見極めようとした。蒼白い飴《あめ》のような洟《はな》が、今にも口の中に垂れ込みそうであった。
眼鏡《めがね》をかけた白ズボンの青年は、いよいよ梅三爺とは五六間程の距離になった。爺は、それが巡査でないことだけは判《わか》った。が、どうも役人らしいので、二度三度と、四度までも続けざまに頭を下げた。
「頭せえ下げて置けば、大概間違いはあんめえから……」という意識が、無意識のうちに彼の心に動いていたのであった。
「竜雄です。天王寺の竜雄です。」と、青年は名乗った。
「あ、竜雄さんでがすか?……」
梅三爺は思い出したように、また懐《なつか》しそうに言って青年の方へ歩み寄った。梅三爺は、その若き日の過去を、幾年となく竜雄の家に雇われてきたのであった。市平もまた、田園|遁走《とんそう》までの四五年を、父親の後を引き継いでいたのであった。
二
刈り倒された青草を藉《し》いて二人は腰を下ろした。
「今日は、なんの方でがす。山遊びしか?」と梅三爺は訊いた。
「山遊びなんて、僕もそんな暢気《のんき》なことはしていられなくなってね。今日は、山巡りに来た序《つい》でなものだから……どうも草盗まれて、萱《かや》まで刈られんので……」
「あ、ほうしか。」
爛《ただ》れた眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》くようにして、梅三爺はもう一度彼の姿を見直した。
「山は、まったくいいですね。」と竜雄は、あらためて四辺《あたり》を見廻すようにした。
「え、山はね。宜《い》がすちゃね……」
「どこを見ても、みんな緑だ。実に新鮮な色彩だ。それに、土の匂いがするし……。ほんに、田舎に限るな。」
彼は独り言のように言った。
梅三爺も爛《ただ》れた眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るようにして四辺《あたり》を見廻した。鼻もうごめかしてみた。――しかし、雑草の緑が沁みついた梅三爺の瞳には、決して新鮮な眺望ではなかった。すがすがしい土の香《かおり》も、既に全身に沁みつくして、彼の嗅覚《きゅうかく》を刺激するようなことはなかった。美衣美食の生活者が、美衣美食を知らぬと同じ悲しさが梅三爺の上にもあった。
「東京になざあ、こうえな青々したところ、どこにも有《が》すめえもねえ。」
「え。ずうっと郊外、在の方へでも行かなければ……。なんと言っても、田舎のことですね。全く、百姓の生活に限る。」
彼は語尾を独り言のように結んで首を項垂《うなだ》れた。
竜雄は、三年前に東京へ出て行った。高等予備校に通って、高等学校の受験準備をするのが目的であった。しかし、彼は三度の入学試験に、三度とも撥《は》ねられた。今の彼の心には、田園生活がとぐろを巻いているのであった。
「そうで有《が》すべかね?」
「どうも僕なんかには、東京は適当《むか》ねえようだね。うるさくって、うるさくって。あれじゃ、気が荒くなるのも無理はねえですよ。ちょっと電車へ乗るんだって、まるで喧嘩腰だもの。――さあ、どうです一本……」
竜雄は、ポケットから「敷島」の袋を取り出して、梅三爺にすすめた。
「あ、宜《い》がすちゃ、宜《い》がすちゃ。」と、梅三爺は辞退して、「ヨーギ、其処《そっ》から、どらんこ[#「どらんこ」に傍点](煙草を入れる佩嚢《どうらん》)持って来う。――ほして、汝《にし》も少し休め。うむ、ヨーギ。」と一本の小さな栗の木を指《さ》しながら言った。
鎌を持って立っていたヨーギは、向こうの栗の小枝にかかっている佩嚢《どうらん》を取りに駈けて行った。その間竜雄は、無言のまま梅三爺の前に「敷島」の袋を突き出していた。
「や、これはこれは、どうもまあ……」
梅三爺は勿体《もったい》なさそうにして、恭《うやうや》しく一本の煙草を抜き取った。併し、抜き取っては見たが、この貴重なものに、火をつけたものかどうかと、暫く躊躇《ちゅうちょ》の様子を見せた。その間に竜雄は、無雑作《むぞうさ》に、火をつけて、ぷかぷかと貪《むさぼ》り吸った。煙は薄蒼白く、燻銀《いぶしぎん》の空から流れる光線の反射具合で、或いは赤紫に、ゆるやかに縺《もつ》れて灌木の叢の中に吸い込まれて行った。
梅三爺は、白毛混《しらがま》じりの無精髯《ぶしょうひげ》にかこまれた厚い唇を、いやに尖《とが》らして、その高貴な煙草――自分ではかつて一度も買ったことのない、一年に一度くらいの割合で、珍しい相手から一本を限度として与えられる、貴重な煙草の真の味わいを味わいつくそうと努めた。けれども爺は、その一本の半分とは燻《くゆ》らさないうちに唐鍬の柄でそうっと揉み消した。そして、佩嚢《どうらん》から、なでしこ[#「なでしこ」に傍点]の刻《きざ》み煙草を取り出し、二三度吸った。
「どうも私等《わてえら》には、巻き煙草では、強がすもな。」
「僕等は、どうも刻みは面倒で……」と、竜雄は別の一本へと吸いさしから火を移した。
「東京さは、今度は、いつ御上京《おのぼり》でがす?」
梅三爺は突然思い出したように、さっきの吸いさしに火をつけながら、また唇を尖らして、とぎれとぎれに訊いた。
「東京なんか、もう、行く気になれんですね。」
「ははは……」と、梅三爺は笑いの中から煙を吐き出した。「やっぱり、田舎《ざえ》の方が宜《よ》がすかな?」
「僕も今度は、一つ百姓をして見ようと思ってね。僕も、開墾でもやりたいと思っているのだが……」
こう言って竜雄は、微笑《ほほえ》んではいたが、彼の計画は真摯《しんし》だった。
「あんだ等が百姓だなんて……百姓しねえたって、役場さ勤《で》るが、学校さでも勤《で》たら……」
「そのくらいなら……」と、竜雄は爺の言葉を遮《さえぎ》った。「――いや、百姓が一番だ。僕は、百姓したいから、東京へなんか行くのを止《や》めたんでね。でなけりゃ、まだ……」
「ほんでも、せっかく、今までやって、惜しがすぺちゃ。」
「僕なんか、最初っから間違っていたんですね。僕等は、百姓の子だから、百姓をやっていればよかったんですよ。まるで、もぐらもち[#「もぐらもち」に傍点]が陽当《ひなた》に出て行ったようなもんで、いい世間のもの笑いですよ。」
彼は微笑みながら言った。そして、「全く、光を求めたもぐらもち[#「もぐらもち」に傍点]だったんだ。」と心の中に呟《つぶや》いた。
併し梅三爺には、竜雄
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