こ置いで俺だって、何も北海道きって行きたく無《ね》えげっとも……」
市平は途切れ途切れにこう言ったが、ここまで来ると、重苦しいものの胸に横たわるような感じに、すっかりその言葉を遮《さえぎ》られてしまった。そして彼は、瞼《まぶた》が段々熱くなって来るのを意識した。
「ヨーギ。天王寺さ行って、糯米《もちごめ》買って来《こ》うちゃ。兄《あん》つあんさ、百合《ゆり》ぶかし[#「ぶかし」に傍点]でもして食《か》せべし。」
炉傍に寝転んでいたヨーギは、すぐに起きかえった。
「何升や?」
「二升も買って来《こ》う。どっさり拵《こせ》えて……」
梅三爺は、紙に包んで帯に巻き込んでいた金を取り出してヨーギに渡した。ヨーギは汚れた風呂敷を背負って、すぐに出て行った。
「ほんでは市平、俺《おら》は、少し百合《ゆり》掘って行って来《く》っかんな。」
「うむ。――父《おど》も、こうして難儀してより、思い切って、北海道さ行げばいいのに!」
鎌を持って出て行く父親の背後《うしろ》から、市平は独り言のように呟いた。
梅三爺は、いろいろ考えて見たが、どうしても生まれた土地から離れる気にはなれなかった。北海道に行けば、安楽な生活が待っているのだと伜《せがれ》は言った。頼寄《たよ》りとする息子とも一緒に暮らすことが出来るのだ。けれども梅三爺は、どんな幸福が待っているとしても、先祖の墓所《はかしょ》を見限り、生まれた土地をはなれて、知らぬ他郷《たきょう》へ行って暮らす気にはなれなかった。
市平は、「こんな、自分のものってば、なんにもねえ土地に、一握《ひとにぎ》りの土もねえ土地に、何がそんなに未練が残んべな?」と言った。併し、彼の父親に言わせれば、自分のものとしては、一握りの土さえ無いからこそ未練が残るのでは無かったろうか? もし仮りに、一坪の土地でも、自分達の帰って来ることの出来る自分達の所有《もの》としての土地が、この生まれ故郷にあるのなら、或いは、梅三爺は伜と一緒に行く気になったかも知れなかった。……
いよいよ市平の出発の朝がやって来た。
汽車の通る町までは、三里に近い道程があった。市平は夜半《よなか》の二時頃から起きて旅支度にかかった。長い徒歩の時間が彼をせきたてていた。
「ほんでは、汝《にし》あ、まだ行ぐのがあ?」
梅三爺は、すっかり帰り支度の出来た市平を見ると、ぽろぽろと涙を落として言った。
「身体《からだ》を大切にして、丈夫でろな父《おど》! 俺《おら》、毎月、五円ずつは送っから……」
こう言った市平の眼も、薄暗いカンテラの灯影《ほかげ》に、ちかちかと光っていた。
貧しい生活の中に、いよいよ残して行かれるとなると、さすがに梅三爺は、一緒に従《つ》いて行きたいような気がした。――併し彼には、土を見限って光の中に出て行くもぐらもち[#「もぐらもち」に傍点]、再び土に帰ることを許されないもぐらもち[#「もぐらもち」に傍点]の悲哀があった。土から生まれて土に生きて来た彼にとっては、土こそ彼の一部であった。彼には、土の無い生活は想像も出来なかった。
どうしても一番の汽車に間に合いたいからと、市平はまだ夜のうちに開墾場の小屋を出た。
「今度は、いつ逢えるがも判《わ》がんねえ。俺《おら》も、その辺まで送って行ぐべで……」
梅三爺は、やはり瞼に涙を溜めて、ヨーギとよし[#「よし」に傍点]は、大丈夫眼を覚まさないからと、市平がとめるのを無理に送って出た。
戸外《そと》は朧夜《おぼろよ》であった。月は薄絹に掩《おお》われたように、懶《ものう》く空を渡りつつあった。村々は薄靄《うすもや》に暈《ぼ》かされ夢のように浮いていた。樹《こ》の間《ま》がくれに見え隠れする灯《ひ》さえ、現実のものとするにはあまりにうっとり[#「うっとり」に傍点]としていた。蛙の声はやわらかに流れ、ひとり特殊な音調に鳴く独奏の声もあった。……
市平の心には、昔の思い出が髣髴《ほうふつ》として湧きあがった。自分の生まれた土地の尊さが、彼の今の心には、不思議な力で神秘なものとされた。彼は、父親の気持ちが幾分、理解することが出来るように思った。
「父《おど》! 俺《おら》も、小金を蓄《た》めで、二三年のうぢには帰って来るがら、丈夫でいろな、父!」
「汝《にし》こそ身体《からだ》を大事にしろ。知らねえ他国で、病気でもしたら……」梅三爺は、涙に遮《さえぎ》られて、言い続けることが出来なかった。
急に元気を失った市平は、朧《おぼろ》の月影にみがかれきらめく長靴を曳きずって、力なくなだらかな坂路《さかみち》を下りて行った。遠くの森では、さっきから梟《ふくろう》が啼いていた。
[#地から2字上げ]――大正十五年(一九二六年)『文章倶楽部』九月号――
底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「文章倶楽部」
1926(大正15)年9月号
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2007年7月23日作成
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