々は薄靄《うすもや》に暈《ぼ》かされ夢のように浮いていた。樹《こ》の間《ま》がくれに見え隠れする灯《ひ》さえ、現実のものとするにはあまりにうっとり[#「うっとり」に傍点]としていた。蛙の声はやわらかに流れ、ひとり特殊な音調に鳴く独奏の声もあった。……
 市平の心には、昔の思い出が髣髴《ほうふつ》として湧きあがった。自分の生まれた土地の尊さが、彼の今の心には、不思議な力で神秘なものとされた。彼は、父親の気持ちが幾分、理解することが出来るように思った。
「父《おど》! 俺《おら》も、小金を蓄《た》めで、二三年のうぢには帰って来るがら、丈夫でいろな、父!」
「汝《にし》こそ身体《からだ》を大事にしろ。知らねえ他国で、病気でもしたら……」梅三爺は、涙に遮《さえぎ》られて、言い続けることが出来なかった。
 急に元気を失った市平は、朧《おぼろ》の月影にみがかれきらめく長靴を曳きずって、力なくなだらかな坂路《さかみち》を下りて行った。遠くの森では、さっきから梟《ふくろう》が啼いていた。
[#地から2字上げ]――大正十五年(一九二六年)『文章倶楽部』九月号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
 
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