た。その住宅区域の表の方は、また、明るい商店の軒並み町になっていて、彼女は、その間の露路を這入《はい》らねばならなかった。
彼女は、ここまで来ると、いつもの癖で、母親が「お母ちゃん帰るかと、見て来よかあ?」という子守唄を歌ってはいないかと、耳を立てるようにした。――その子守唄は、彼女の家の、寂しさの象徴だった。職を漁《あさ》りに出た夫もまだ帰って来ないとき、そして恵子が母親を待ち兼ねたとき、母親もまた餌《え》を運んで来る子供達が待ちきれなくなって、恵子を慰めると同時に自分自身をも慰めずにはいられなくなって歌う唄なのだったから。
「接吻《キッス》をして頂戴よ。ねえ! 接吻をして頂戴よう。」
おや、まあ! と三枝子は、低声《こごえ》に呟《つぶや》くようにして、自分の耳を疑わずにはいられなかった。
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの? 厭ならいいわ。」
三枝子は驚異と、一種の恐怖とを感じないではいられなかった。無論それは自分の家《いえ》からして来た声ではなかったが、まだ人通りのある宵の裏街で、一体、どんな女が媚《こび》を売ろうとしているのだろう? そしてどんな男が相手になっているのだ
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