た。その住宅区域の表の方は、また、明るい商店の軒並み町になっていて、彼女は、その間の露路を這入《はい》らねばならなかった。
 彼女は、ここまで来ると、いつもの癖で、母親が「お母ちゃん帰るかと、見て来よかあ?」という子守唄を歌ってはいないかと、耳を立てるようにした。――その子守唄は、彼女の家の、寂しさの象徴だった。職を漁《あさ》りに出た夫もまだ帰って来ないとき、そして恵子が母親を待ち兼ねたとき、母親もまた餌《え》を運んで来る子供達が待ちきれなくなって、恵子を慰めると同時に自分自身をも慰めずにはいられなくなって歌う唄なのだったから。
「接吻《キッス》をして頂戴よ。ねえ! 接吻をして頂戴よう。」
 おや、まあ! と三枝子は、低声《こごえ》に呟《つぶや》くようにして、自分の耳を疑わずにはいられなかった。
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの? 厭ならいいわ。」
 三枝子は驚異と、一種の恐怖とを感じないではいられなかった。無論それは自分の家《いえ》からして来た声ではなかったが、まだ人通りのある宵の裏街で、一体、どんな女が媚《こび》を売ろうとしているのだろう? そしてどんな男が相手になっているのだろう?
 三枝子はそんなことを思いながらそこの四辻を左に曲がった。
「おい! 三枝さんかい?」
 薄暗がりから、そう言って街燈の下の明るみへ出て来たのは、彼女の夫だった。
「まあ! あなたなの? 私、びっくりしたわ。」
 彼女は立ち止まって夫を待った。夫は、彼女が今来た路とは直角に、あの女の声のしていた方の路から来て彼女と一緒になった。
「今日も、遅いんだね。」
「明日は日曜だから。どう? あなたの職業《しごと》の方は。やっぱり駄目?」
「うむ。どうも……」
 遠廻しに! と彼女が、瞬間的に考えたプランを置き去りにして、二人の話は、深刻な加速度をもって、彼の職業の上に落ちて行った。

     二 絶交

 翌朝《よくあさ》になってから三枝子は自分の心の中に一つの芽を感じた。今までに経験したことのない感情が動いているのだった。
 毎日職を漁《あさ》りに出て行く夫が、家庭の外でどういう行動を取って帰って来るのか? 三枝子は瞭然《はっきり》とそれを知りたい気がした。朝に出て夜に帰って来るその間には、どこかへ勤めをして、なおそこに一つの生活を持ち得る時間の余裕があるのだ。そしてその生活は、そ
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