佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鰐《わに》

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(例)[#ここから罫囲み]
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     一

 彼女は銀座裏で一匹のすっぽんを買った。彼女のそれを大型の鰐《わに》皮製のオペラ・バッグに落とし込んで、銀座のペーヴメントに出た。
 宵の銀座は賑《にぎわ》っていた。彼女は人の肩を押し分けるようにしながら、尾張町の停留所の方へ歩いた。店を開きかけた露店商人が客を集めようとあせっている。赤、青、薄紫の燈光が揺れる。足音が乱れる。
「もしもし! 奥さん。」
 彼女は誰かに呼びかけられたような気がして立ち止まった。彼女の肩に、無数の肩が突き当たり、擦り合って行った。鼠色の夏外套、鮮緑の錦紗《きんしゃ》。薄茶のスプリング・コオト。清新な麦藁帽子。ドルセイの濃厚な香気。そして爽かな夜気が冷え冷えと、濁って沈澱した昼の空気を澄まして行った。
 錯覚だったのだ。誰も呼んではいなかった。鼠色のハンチングを眼深《まぶか》に冠った蒼白く長い顔の男が、薄茶の夏外套に包んだ身体《からだ》を、彼女の右肩に擦り寄せる
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