ようにして立っているだけだった。
 彼女はその男から逃《のが》れるようにして、車道を越えて向こう側の舗石道《ペーヴメント》に渡ろうとした。電車がピストン・ロットのように、右から左へ、左から右へと、矢継ぎ早に掠《かす》めて行った。青バスが唸って行く。円タクの行列だ。彼女は急に省線で帰ることにした。円タクをやめて。
 省線電車は割に混んでいた。併し彼女はどうにか腰をおろして、その左脇にオペラ・バッグを置くことが出来た。
 神田駅に近付いたとき、彼女は、自分の左脇に腰をおろしている男が、顔全体で痛さを堪えながら指先を握っているのに気がついた。その指の間からはだらだらと血が滴っていた。
「まあ! どうなさったんです?」
 彼女は、眉を寄せて、自分のハンカチを出してやった。
「あ、済みません。どうも、あの扉で……」
 彼は礼を言いながら血に染まった指先をハンカチで包んだ。食指の一節はぐしゃぐしゃに切れて無くなっていた。
「まあ、もげたんで御座いますか。」
「え。あの扉でもって…… 神田ですね。や、どうも……」
 男は戸口へ駈けて行った。鰐皮製のオペラ・バッグがその男の席に倒れた。彼女も、それを取
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