指と指環
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頤《あご》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五十|間《けん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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 銀座裏のカッフェ・クジャクの内部はまだ客脚が少なく、閑散を極めていた。
 彼は、焦茶色の外套の襟で頤《あご》を隠して、鳶色《とびいろ》のソフトを眼深《まぶか》に引き下げていた。そして、室の中を一渡り見渡してから、彼は隅のテーブルへ行って身体《からだ》を投げ出した。
「いらっしゃいまし。何になさいますか?」
 すぐと女給が寄って来て言った。
「うむ。何にしようかな?……」
 彼は言いながら女給の手の指を視詰《みつ》めた。蒼々《あおあお》しく痩せた細い魅力の無い指だった。
「まあ、なんでもいいよ。」
「でも……」
 鉛筆で伝票を敲《たた》きながら女給は微笑んだ。
「じゃ、カクテルをもらおう。」
 彼はテーブルの外に両肘を立ててソフトの外から頭を抱き込むようにした。突き立てた両腕の間から、疲れた者の表情の中に黒い大きな眼が、何かを探るように光っていた。
 彼は今日も一日中、女の綺麗な指を探して廻ったのだった。東京中のあらゆる階級の女の、あらゆる指を、彼は片《かた》っ端《ぱし》から見て来たのだった。省線電車の中に並んだ女達が慎《つつ》ましく膝の上に揃えた指、乗合自動車の吊り革を掴《つか》む女達の指。市内電車の中で手持ち無沙汰に乗車券を弄《もてあそ》ぶ女達の指。百貨店の女店員達の忙しく動いている指。赤黒い指、短い指。骨張った指。彼は街上で行き合う女達の指さえも見逃さなかった。しかし彼はそのたびに落胆を繰り返させられるばかりだった。そして最後に彼は、女給の中に綺麗な指を探ろうとしてここに来たのだった。
「お待ち遠うさま。」
 他の女給がカクテルを運んで来た。彼はそれを受け取らずにその女給の指に眼を注いだ。半透明なほど鈍白《にぶじろ》い丸味を帯びた指だった。
「君は、綺麗な指をしてるね。ちょっと!」
 彼は左の手を握った。右手ではチョッキの内ポケットに指環を探った。
「私の手なんか駄目ですわ。節が高くて……」
「いや、ちょっと!」
 彼はそう言いながら彼女の指に指環を嵌《は》めてみた。併し指環は固くてどうしても嵌《は》まらなかった。
「どうなさるんです?」
 彼女は彼の顔を怪訝《けげん》そうに視詰めた。
「やっぱり君の指も、駄目だね。綺麗は綺麗だが……」
 彼は彼女の手を投げ出すようにした。彼女の指は、節が高いばかりでなく、彼の理想と合致するためにはあまりに短かった。
「駄目ですわ。私の指は節が高くて。」
「少し短いね。もう少し細くて長いと、この指環を嵌めてやるんだが……それに爪が……」
 彼は眉を寄せるようにしながら、掌の中に指環を振り転がした。
「まあ! そんな立派な指環を? そんな綺麗な……」
「指環が立派過ぎると、結局、立派な指というものが無くなるんだ。馬鹿馬鹿しい。」
「ここに一人、綺麗な指の人がいるわ。そりゃ、とても素敵な指よ。もう少しすると来るわ。」
「よし! その人が来たら会わしてくれ。本当に綺麗な指をしていたら、この指環を上げよう。どうせ綺麗な指に嵌めてやろうと思って買って来た指環なのだから……」
 彼は軽い興奮の表情でカクテルのグラスを唇に持って行った。

 彼は最早《もはや》常人ではなかった。彼は指の偏執狂《へんしつきょう》だった。死んだ愛人の彰子《あきこ》の手のように素晴らしく綺麗で立派な指を探ろうとする偏執狂だった。
 彼の愛人だった彰子の手。――石蝋に彫り浮かべたような白い指だった。その一本一本の指は靭《しなや》かに、繊細な神経を持った生物のように動くのだった。肥っていて丸味を持ってはいたが、整った線で細長い感じだった。そして、鈍白《にぶじろ》く半透明の、例えば上簇《じょうぞく》に近い蚕《かいこ》を思わせた。爪もまた桜色の真珠を延べたような美しさだった。――彰子は綺麗なその手のために、その立派な長い指のためにピアニストを志したのだった。
 彼は仏蘭西《フランス》へ渡るとき、彰子のその優雅な指を飾るために、極めて立派な芸術的な指環を買って帰ることを彼女に約束したのだった。そして彼の巴里《パリ》での三年間の生活は、殆んどその一個の指環のために費されたと言ってよかった。彼は貯蓄に努めた。立派で綺麗な彰子の指を、やがてはピアニストとしての芸術家彰子への指を飾るべき一個の指環のために貯蓄した。そして彼は絶えず、指と指環との調和を考え続けた。ピアノのキ
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