イの上を走る白い指には、どんな指環が最もよく調和の美を描き出してくれるだろうか? 彼の巴里での三年間に亘る空想の翼は、常に彰子の美しい指の上に拡げられていた。
 巴里での三年間が終わりに近付いた或る日、彼は突然、彰子が危篤だという日本からの電報を受け取った。動き出した電車に飛び込むような場合ではあったが、彼は彼女と約束した指環のことを忘れなかった。
 彼はこの急場で三つの指環に魅力を感じた。彼は映画のタイトルを読むような気忙《きぜわ》しさで、この三つのうちから、最も清楚《せいそ》な感じの、最も高価な指環を選んだ。それは素晴らしく大きな青光りのダイヤと、黄金の薔薇の花束から出来ていた。精巧な彫刻の施された二束の薔薇には、その蕾や花として無数の真珠と青光りのダイヤが鏤《ちりば》められ、その両尖端の五六枚の葉先が、何の意味もなく、その素晴らしく大きな青光りのダイヤを支えているのだった。
 併し彼がその指環と共に、シンガポール沖で、ピアノのキイの上を走る彰子の綺麗な指に、その素晴らしい指環の輝く芸術的な雰囲気を空想の中に味わっていたころ、彰子はもう死んでいたのだった。
 彼は落胆《らくたん》と悲哀との中で第二の手を探し始めた。綺麗で立派な手! 白い優雅な指! 併し彼の求める指、その指環の求めるような指は容易になかった。彰子の友人達の、立派な指のためにピアニストを志したという人達の指さえ、ピアニストになりきった現在では、常にワン・オクタアブを敲《たた》いているような、ひどく不格好な骨張った指になっていた。
 彼は、だが彰子の指を忘れられなかった。そして、現在の彼の感興を惹くものは、美しい指の他にはないのだった。

 短い指の女給が、綺麗な指をしているという他のウエイトレスを伴《ともな》って戻って来た。
「参りましたわ。この人の指なのよ。」
 彼は一瞬間、その女の顔を睨《にら》むようにして視詰めた。そして無言で、すぐにその手を握った。細長い靭《しなや》かな白い指だった。
「駄目よ。私の指なんか。」
 彼は尚もその指を視詰め手を視詰め続けた。甲の方は相当に綺麗だが、掌《たなごころ》の中に、薄赤い連銭模様があり、それが赤棟蛇《やまかがし》の脇腹のように、腕の上にまで延びていた。彼はその手を投げ出すようにした。
「駄目だ! 指はまあ……」
「だから、初めから駄目だと言っているじゃないの? さあ、私が指を見せて上げた代わりに、あなたの持っている指環を見せてよ。」
「指環はいくらでも見せてやるがね。」
 彼は再びチョッキの内ポケットから指環を取り出して女給の手に渡した。
「まあ、なんて綺麗な立派な指環なんでしょう。」
「この小さいのも、皆んな真珠とダイヤだわよ。」
 彼女達は顔を寄せ合わせて指環を観賞した。
「幾ら立派でも綺麗でも、どうせ指環なんてものは、第二義的なものさ。綺麗な指に嵌《は》めてこそ価値があるものなんだ。」
「凄いわね。」
「私、なんだか、恐いようだわ。この指環!」
「恐い? 立派な指さえ持っていれば、恐くなんかありゃしないんだ。さあ、いいかげんにして返してくれ。」
 指環は燦然《さんぜん》と輝きながら彼の手に戻った。
「この指環の恐くないような指を持った女は、この東京中にいないんだ。みんな、つまらない指を持った女ばかりだ。」
 彼は叫ぶように言って、指環をチョッキの内ポケットに蔵《しま》った。そして、冠っていたソフトを取ってテーブルの上に叩きつけた。
「一人として、素晴らしい指を持った女がいないなんて……」
 彼は唇を噛みしめるようにしながら横を向いた。とそこの、三つばかり先のテーブルに、二十七八の美貌の婦人が、綺麗な左手の指を撓《たわ》めながらこっちを視詰めていた。彼はその婦人に向けて眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。彼の全身はその婦人の指の恍惚感に沸騰した。
 婦人は、彼の視線ですぐ横を向いてしまったが、暫く前からこっちを視詰めていたに相違なかった。そして彼女は、彼のした話のすべてを聞いたのだ。彼のした動作《どうさ》のすべてを視たのだ。彼はそれを感じて、指環を誇りながらあらゆる女の指を貶《けな》した今の自分を、その婦人の前に恥ずかしく思った。
 婦人は悠長に、左の肘をテーブルの上に立てた。そして手首を鶴の首のように曲げてその上に頤《あご》を載せた。顔の白粉が手首の上に映るようだった。それから婦人は、左の手で器用にマッチを摺って、煙草《たばこ》に火をつけた。彼女の手の一本一本の指は、繊細な神経を持った生物のように動くのだった。
「お待ち遠うさま。」
 給仕女がコーヒーを運んで来た。指の間に煙草を挟んだ婦人の手は、魚のように敏捷に角砂糖を撮《つま》んだ。そして婦人は銀のスプンで茶碗を掻《か》き廻した。婦人
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