首を失った蜻蛉
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薊《あざみ》の花や

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)尚|一入《ひとしお》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ころりっ[#「ころりっ」に傍点]と
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 薊《あざみ》の花や白い山百合の花の咲いている叢《くさむら》の中の、心持ちくだりになっている細道を、煙草《たばこ》を吸いながら下りて行くと、水面が鏡の面のように静かな古池があって、岸からは雑草が掩《おお》いかかり、中には睡蓮《すいれん》の花が夢の様に咲いている。そして四辺《あたり》の杉木立や、楢《なら》、櫟《くぬぎ》、楓《かえで》、栗等の雑木の杜《もり》が、静かな池の面にその姿を落として、池一杯に緑を溶かしている。
 彼は池のほとりに据《す》えられた粗末なベンチに腰を下ろして、暫《しばら》く静かな景色に見とれていたが、雑木林の中を歩きながら考えた。それは一時間程前に、「明晩まで考えさせて下さい。」と仲田に言って来た返事についてであった。彼は溜め息をつくように、ぱっと煙草の煙を吐いては、首を垂れて歩きながら考えた。
 彼はどんな労働でもやると言った。全くやろうという固い決心を抱いて、どんなことでもやる積もりだから仕事を見つけてくれという手紙を、農夫ではありながら仲々交際の広い仲田に出して置いたのであった。でありながら、いよいよ仲田の処に来て彼の話を聞いて見ると、彼はその返事に躊躇《ちゅうちょ》せずにはいられなかった。それはあまりに仲田の持ち出した話が、彼の想像とかけはなれていたから……。
「さあ! 私に、そんな事が出来るでしょうかね。」と、ただ彼は驚いて見せた。
「そりゃ、やる気にさえなれば、誰にだって出来まさあね。」と、言って仲田は、にやり微笑《ほほえ》んで見せた。「何、訳はねいんですよ。ただ豚を撲《なぐ》り殺せばいいんだからねよ。皮を剥《は》ぐとか、肉をそぐとかいうんなら、慣れねえ素人《しろうと》には出来なかんべが、何、撲り殺すだけなら、全く訳はねえでさあねえ。」
「それがですよ。その撲殺するのが……、果たして私にうまく殺せるかどうか、というのです。少しもその方面に経験の無い私に……。」
「経験もへつまも入《い》ったもんじゃねえですよ。枠《わく》に縛りつけられて、ヒンヒン鳴い
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