義だろう。自分を欺《あざむ》かない意志だろう。生きるための唯一の路だろう……。
 俺《おれ》もこのまま就職口が見つからなかったら、屠殺場に[#「屠殺場に」は底本では「屍殺場に」]行って豚殺しをやる気になるだろう……と彼は思った。だがそれは、蜘蛛が巣を張って蜻蛉や蛾や蝶を捕って食うのとは幾分趣を異にしている。丁度《ちょうど》人間が網を張って魚を獲ったり鳥を捕《と》ったり、鉄鉋で獣を撃ったりする様なものだと彼は考えた。それなら彼は大好きである。あの可愛《かわい》らしい兎や鳩や、その他の動物を殺すことを少しも可哀想だとは思わなかった。それは人間の征服性の興味が、慈悲心を超越しているからであろう。だが職業として毎日多くの豚を屠《ほう》ることは、可哀想だ惨酷だという気がして出来なかった。
 未《ま》だ田舎にいた時分、彼は鉄鉋で兎を撃った事があった。そして兎の苦しむのをまのあたり熟視した。けれどもあまり可哀想だとは思わなかった。ただ無暗《むやみ》に嬉しく父母の前に飛んで来てそれを見せた。その時代の殺生は、可哀想だからと思えばそのまま止《よ》すことが出来たのだ。何等生活に不安があるのでも、職業的にそれをやるのでもなかった。道楽に過ぎなかった。併し今となっては、可哀想だと思っても惨酷だと思っても、自分が生きるために豚を屠ることを職業としなければならないかも知れぬ境遇となっていることを思うと、自分のことながらも哀れになる程の、三四年という短い間の自分の境遇の変わり方が、あまりにも激しい変わり方だった。
 彼は現在の自分を、この首の無い蜻蛉のようなものだと思った。そして強い刺激に遇うごとに、局部の神経が僅かに動いているだけであった。
 かなり資産のあった自分の家が破産して、親の胸から離れて実社会に飛び出して来てからは、実社会には、何等の武器的才能を持たない者を引っ掛けるために、一面に美しい蜘蛛の巣が張られていて、その見取り難い蜘蛛の巣に引っ掛かったが最後、蜻蛉程の力と勇気とを持って、その巣から遁《のが》れたにしても、すぐにその弱者の首を持って行く者がその下に待っているのであった。ああ局部の神経を強い刺激によって僅かに動かし得る首無しの蜻蛉となってしまったのだ……。
 死! 死! 恐ろしい死……。一度堕落のどん底に沈んだ青年の彼は、実社会には死んだ人間であらねばならないのだ。どこへ行った
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