人は、暫くの間、天神様の絵を眺めていた。
「爺様は、今、どこにいるのじゃ。」と私の母は訊いた。そして、お茶を出したり、茶菓子に乾し柿を出したりした。
「わしは、今、町の寺に泊まっているじゃ。大変親切な和尚さんで、いつまでも泊まっていろと言うから、生きているうちに、何かいいものを描きたいと思っているのじゃ。一枚、鍾馗《しょうき》を描いてやったら、大変喜んでいたがの。――ちょっと、硯《すずり》を貸してくれ。」と再度生老人は言った。
私が硯を持って来ると、再度生老人は、墨を磨《す》りながら、また暫くの間、天神様の絵を眺めていたが、ふところから、新聞紙に包んで来た筆を出して、天神様の髯をほんのちょっとだけ直した。そして、またしばらくの間見続けて、またちょっと筆を入れて、私に渡しながら呟《つぶや》いた。
「これでいい。わしもこれで、死んだところで、別にもう心残りはないわけじゃ。」
再度生老人は、微笑みながら茶を啜《すす》った。
私は再度生老人が、何のために来たかがわかった。私は子供心に彼を尊敬せずにはいられなかった。
その後、父は、その天神様の絵を表具屋にやって、表装してくれた。そして
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