っているのだった。同時に、法律に対する彼等の恐怖感をも唆らずには居られない気がした。――この前に煉瓦工場が繁昌したとき、彼が煉瓦工場と地主達との間を奔走して、宏大な良質の田圃の底を煉瓦にさせたと云うので、彼を脅かそうとした部落の青年達が、法律の名によってどんな目に会されたか? ――あの当時の彼等が、法律に対して抱いた恐怖観念に、部落の奴等をもう一度叩き醒ましてやらなければならないと権四郎爺は考えたのだった。
「なあ、野郎共! 法律は許さねえぞ。平吾の馬鹿野郎め! 善良な人民の交通を妨害しやがって、それで罪人でねえと云うのが? 平吾の馬鹿野郎! 犬野郎! 畜生! 猿! 栗原権四郎が罪人と睨んだ以上、法律が許して置くか? 平吾の馬鹿野郎め!」
「老耄め! なんだって他人《ひと》の悪口をして歩きやがるんだい? 高々と。」
 暗い生垣のところから、誰かが斯う言って、ぬうっと出て来た。其処は、平吾の家の杉垣と、平吾が鵞鳥を飼っている苗代とに挟まれてる場所であった。
「誰だね? おめえは誰だね?」
 権四郎爺は蹌踉き去りながら言った。誰かがまた自分に突当って来たのだと思ったからである。
「誰も糞もあっかい! 糞爺め! なんだって叫んで歩きやがるんだ? 苗代の泥の中さ突倒《つきの》してくれるぞ。老耄爺め!」
「叫んで歩いだがらって、何も咎立したり、悪口したりしねえでもよかんべがね。法律は、言論の自由を許してるのでごおすからね。」
「ふむ。言論の自由ば、自分だけ許されてると思ってやがる。耄碌しやがって。貴様が、他人の悪口を言って歩いて、言論は自由だって云うんなら、俺だって自由だべ。糞垂爺め!」
「ほれにしたところでさ。別におめえの悪口をして歩いたってわけじゃあるめえしさ、年寄が酒に酔っ払って管を捲いて歩くのぐれい、大目に見でけろよ。なあ、俺が大声を立てて歩いたのが気に喰わねえって云うのだら、俺は一升買うどしべえで。」
「面白いごとを云う爺だな。今まで、平吾の馬鹿野郎、平吾の犬野郎って、俺さ悪口してやがって、それでも俺さ悪口をしねえって云うのなら、平吾って野郎をもう一人引張って来う! 俺の他に、平吾って野郎は一体この辺にいるがい? 考えで見ろ! 糞爺め!」
「おめえが本当の平吾がね? どうれで、先っきのは、なんだか新平に似た平吾だと思ったっけ。それは悪いごとをした。新平の野郎が、俺さ交通妨害をしやがって……兎に角、ほんじゃ間違えだで、俺が一升買うがら、一緒に茶屋さ行くべ。あっ? なっ!」
「その手に乗っかい! 法律が言論の自由を許している。糞爺! 犬爺! 猿爺!」
 平吾は斯う呶鳴《どな》って置いて、権四郎爺の胸をぐっと突飛ばした。権四郎爺は泥田の中へ蹌踉き落ちた。闇の中から鵞鳥が一斉に鳴き出した。
「西洋鵞鳥でも見物したらよがんべ。」
 平吾は、ふふっと笑って、何処へと云うあてもなく駈け出して了った。
「野郎! 人殺し野郎! 法律が許すと思うのが? 平吾の人殺し野郎め! 栗原権四郎に指を触れて、法律が許して置ぐと思うのが? 馬鹿野郎! 犬野郎! 人殺し野郎め!」
 権四郎爺は苗代の中の泥から足を抜き抜き、何時までも呶鳴り続けていた。
         *
「だがね、旦那! 旦那はそうして眼をかけてるげっとも、宮前屋敷の野郎共ったら、平吾にしろ新平にしろ、乱暴な野郎共ばかりで、今に屹度《きっと》、松埃がかかって収穫《みのり》が悪いがら、小作米を負けてくれとか、納められねえどか、屹度はあ小作争議のようごとを出かすに相違ねえ野郎共だから。そこを、ようぐ考えで。ね、旦那! 年寄は悪いごと言わねえがら。」
「若し、そんなごとしたら、法律が許して置きしめえから、大丈夫でがすべで。」
 森山はそう言って微笑んだ。
「法律は、それゃ、勿論許して置かねえにしても、そんなごとさかかわるより、土地ば売って了って、それを資本《もとで》にして、何か店を開いたら、なんぼよかんべ。――第一、土地持ってっと、税金ばかりかかって来て……」
 併しそれは、どうしても、森山には頷けない気持だった。
 損徳の問題からすれば、土地を売って了って、市街地へ出て商業に投資すべきであることは彼も無論知っていた。遥か以前に、あの煉瓦場附近の土地を売って、それを資本にして市街地に出た人達が、新しく始めた製造業なり醸造業なりで、相当の資財を積んだ実例から見てもそれは明らかなことだった。
 同時に彼は、小作人と同じところに盛衰を置いている小地主の自分を判然と知っていた。けれども、労力さえ加えれば永久に米が湧いて来る田圃の底を煉瓦に変えて了うと云うことは、森山には全く堪らない気持であった。
「何んと思っても、売れせんでがすね。」
「じゃ、もう一度ようぐ考えて。――何時かな?」
 権四郎爺は、帯の間から金側時計を引抜いて、それを覗きながら腰を上げた。
「おや! こんなどこさまで松埃が這入ってがる。ひでえには、ひでえんだな。見せえ、こら。」
 斯う言って彼は、森山の前に、自分の身体ごとその懐中時計を持って行った。時計の白い文字盤の上には、二つ三つの黒い斑点がとまっていた。
 幾ら考えても森山はあの土地を売る気にはなれなかった。田圃の底が煉瓦に変ると云うばかりでなく、そうして耕地を失った人々が、食物の生産から遠ざかって行くことがわかりきっているからだ。斯うして行ったら最後にはどうなるのだ? まさか煉瓦を食っているわけにも行くまい! 森山はそんな風に考えた。

       三

 煉瓦工場は黒煙を流し続けた。森山が土地を売らなければ、それで一時は中止するだろうと思われていたのだったが、そんなこと位で容易に怯んではいなかった。煉瓦工場では遠方にその材料の粘土を需《もと》め出した。赭《あか》い二つの触角は、森山の所有地を挟んで伸びて行った。
「煉瓦場の野郎共も、面白い野郎共だな。ほら、あの赭土を採った跡を見ろったら。煉瓦場の親父の頭の禿具合と、そっくり似たように拵えがったから。」
 部落の百姓達は丘の上から見下して斯んな風に話し合った。そして笑った。
 赭土の中に黒い地帯がひどく目立って来たのだった。額の両側から禿上って行く禿頭の、黒い髪が中央《まんなか》に残っている前額部の形だった。併しそれも長続きはしなかった。赭い触角は両側から次第に黒い地帯を抱込んで行った。そして二年の後には、黒い地帯を全くの浮島にして了った。
 黒い浮島は、それと同時に、最早完全な水田ではなかった。水田には水田が続き湿地が続いて、温い水を保つためには相互扶助的な作用がなければならないのに、黒い浮島は例えば丘の上の耕地のようなものであった。雨が降り続けば沼になり、炎天が続くと、粘質壌土は荒壁のように亀裂が立った。雑草が蔓延《はびこ》った。その根がまた固くて容易に抜けなかった。そのために稲はひどく威勢を殺《そ》がれた。のみならず、開花期間《はなどき》もやっぱり煤煙が降り続いたので、風媒花の稲は滅茶滅茶だった。穂の長さは例年の三分の二ほどしかなかった。実のつきも無論悪かった。
「且那様。どう云うわけでごわすか、俺等の田は、今年は大へん出来が悪くて、小作米の半分も出来ねえのでごわすが、来春の春蚕《はるご》が上るまで待って項くわけに行きしめえか?」
 斯う言って捨吉爺は、地主の森山に泣付くより仕方が無かった。新平の家でも、松代の家でも、それから平吾の家でも、同じような結果だった。
「小作米は兎に角、作の悪かった原因がわかんねえようじゃどうも困るね。第一あんな竹の樋で水を運んでちゃ、駄目でがあせんか?」
「それゃ、且那様、俺等もそれ位のごとは知ってるのでごわすが、俺等にゃ竹の樋より上の分にゃ、手が出ねえもんでごわすから。」
「無論それは此方で拵えますがね。他人《ひと》から笑われねえだけのごとあしますべ。――やって置くだけのことやって置かねえど、小作米を貰うわげに行きせんでがすからね。」
 森山はそう言って笑った。併し、それは、彼の心臓から吐出された言葉だった。
「来年はまあ、箱樋でも拵えで見るがね? そんでいげねえようだったら、改めて鉄管なりなんなり引くとして。」
「箱樋を引いて頂けゃ、水はそれで十分以上でごわすもの、そしたら、肥料《こやし》もどっさり入れて、田の草取りなんかわらわらと、俺等は鬼のように稼いで、来年こそは、立派な稲にしてお目にかけしてごわす。」
 捨吉爺は、水に難儀をした今年の夏のことなどを思い出しながら、斯う言って、両方の眼をちかちかと潤ませた。
         *
 翌年の春になると、白い木製の箱樋が、赭土の窪地を乗越えて黒い浮島に渡された。水は用水堀から溝の中へと、どんどん流れ込んで行った。黒い地帯の小作人達は、急に気が弛んで溜息を吐いた。森山もそれで安心した。
「此方でだって、奴等に負けていねえさ。奴等のように資本をかけてやるつもりなら、どんなどこさだって、立派な田圃拵えで見せる。」
 併し、幾ら水を引いて来ても、秋になっての結果は思わしくなかった。冷たい水は稲の根を洗ってどんどん逃げて行った。のみならず、水は土地から肥料を盗んで行った。そして黒煙が流れ続き松埃が降り続いたからだった。粘質壌土ではあり、土鼠《もぐら》穴は十分に塞いだつもりだったので、これ以上は手の下しようが無かった。最早、四囲を掘荒されたためからの影響として、地盤が落着き、肥料が土地に馴染むまで、凝《じ》っと待つより他に途が無かった。
「仕方がねえさ! どうも。小作米はいいから、まあ、当分これで続けて見せえ。」
 斯う森山から言われて、其処の小作人達は、泣寝入の気持で細い収穫を続けて行った。今によくなるに相違ない! 今によくなるに相違ない! と思い続けながら。
         *
 所が、思いがけなかった大きな負担が、突然彼等を驚かした。水害で、用水堰は、その堤防までも流されて了ったからだ。
 以前には、用水堰が壊れると、煉瓦場附近一帯の田圃を所有している幾人かの地主がその費用を負担し、その小作人達が労力を供給することになっていたのだった。が、今ではその用水堰を必要とする土地と言えば、あの黒い浮島だけだった。当然、森山が一人でその材料費を出費して、僅か三四軒の小作人が、その労力を供給しなければならないのだった。
「旦那!あそこは、もうどうしたって、田圃にしていちゃ合わねえようでがすね。畠にでもして了っちゃどうでがすべ?」
 新平は斯う言ってひどく力を落していた。
 氾濫の激しい荒雄川の急流にコンクリートの堰を突出してまで水を持って来るほどのことだろうか? 森山はそんな風に考えざるを得なくなって来た。無論それは、明日の太陽をあの地帯にのみ望んでいた森山にしてみれば、全財産を傾けても水田として持続して行き度いのであった。
「――で、あそこを畠にして了っても、あんたがたは、やって行げるかね?」
「併し、無理して堰を拵えで見ても……」
「今になって畠にする位なら、あそこを売って、何処かいいどこの畠を買いばよかったのだども。」
 森山はそう言ったきり黙って了った。森山は泣いているのだった。

       四

 雪はまだ降り続いていた。最早五六寸も積っているのだった。戸を開けると、粉雪は唐箕《とうみ》の口から吹飛ばされる稲埃のように、併しゆるやかに、灯縞《ひじま》の中を斜めに土間へ降り込んだ。
「何時まで降る気なんだかな? この雪は!」
 捨吉はそう言って雪の中へ飛出して行った。そして水を汲んで来て、直ぐに竈の下を焚付けた。娘のお房が立って行くので餅を搗こうと云うのだった。誰もその晩は碌に眠れなかった。皆んな一番鶏で起きた。子供達もそれを嗅ぎつけて、どんなに起すまいとしても、寝ては居なかった。
「お母《が》あ! 銭《ぜんこ》けろ。銭けろってばな。姉さ餞別しんのだからや。お母あ!」
 六つになる弟の亀吉が、何処からか餞別と言う言葉を覚えて来て、斯う強請《ねだ》り出した。
「おっ! 亀は、姉さ餞別やって、お土産を貰うべと思って。亀! 俺の銭けんべ
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