黒い地帯
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)掩《おおい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)急性|霍乱《かくらん》
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(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》の
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一
煉瓦工場からは再び黒煙が流れ出した。煤煙は昼も夜も絶え間なく部落の空を掩《おおい》包んだ。そして部落中は松埃《まつぼこり》で真黒に塗潰された。わけても柳、鼠梨、欅などの樹膚は、何れとも見分けがたくなって行った。桐、南瓜、桑などの葉は、黒い天鵞絨《びろうど》のように、粒々のものを一面に畳んだ。
雨が降ると黒い水が流れた。何処の樹木にも黒い雀ばかりだった。太陽は毎日毎日熱っぽく煤ばんで唐辛子のような色を見せた。作物は何れもひどく威勢を殺《そ》がれた。殊にも夥しいのは桑の葉の被害だった。毎朝、黝《くす》んだ水の上を、蚕がぎくぎく蠢《うご》めきながら流れて行った。
*
「――俺《おら》家の鶏ども、白色レグホンだって、ミノルカだって、アンダラシャだって、どいつもこいつも、みんなはあ、黒鶏《からすとり》みてえになってるから。」
「何処の家のだって同じごった。俺家の鵞鳥《がちょう》を見てけれったら。何処の世界に黒い鵞鳥なんて……。俺は、見る度に、可笑《おか》しくてさ。」
「雪のように白かったけがなあ!」
「俺はな、ほんでさ、西洋鵞鳥! 西洋鵞鳥! って徇《ふ》れて、一つ、売りに行って見べえかと思ってるのだけっとも。」
「儲かっかも知れねえで。黒い鵞鳥! って言ったら、町場の奴等は珍しがんべから。」
「何んて言っても、腹の立つのあ、権四郎爺さ。」
「うむ。部落《むら》のためにゃあ、あの爺なんか、打殺《ぶちころ》して了めえばいいんだ。」
路傍の堤草《どてくさ》に腰をおろして、新平と平吾とは、斯んな話をしていた。其処へ、同じ部落の松代が通りかかった。松代は、ひどく色の黒い娘だった。
「やあい! 松代さん。シャボン買いか? シャボンよりもいいもの教えっから、少し休んで行げったら。あ、松代さん。」
「余計なお世話だよ! 平吾さん。他人のごと心配するより、自分のどこの鵞鳥でも洗ってやったらよかんべね。」
松代は応酬しながら寄って行った。
「俺家の鵞鳥、西洋鵞鳥だもの、烏と同じごって、幾ら洗ったって、白くなんかなんねえのだ。松代さんのように、地膚が白くて、洗って白くなんのなら、朝晩欠かさず洗ってやんのだげっとも。」
「知らねえど思って、何んぼでも虚仮《こけ》ばいいさ。何処の世界に、黒い鵞鳥だなんて……」
「嘘だってか? 西洋鵞鳥って、おめえ、随分と高値のするもんだぞ。」
寝転んでいた新平が起上りながら言った。
「幾ら高値でも、松代さんが嫁に行げねえと同じごって、煉瓦場のために、売口が無くて困ってのさ。世間の奴等、俺家の西洋鵞鳥、煉瓦場の松埃で黒くなったのだと思っていやがるからな。松埃で黒くなった松代さんば、地膚がら黒いのだと思ってやがるし……」
「頭が禿げだって知らねえから。」
松代はそう言って平吾の手を撲った。
併し、松代は調戯《からかわ》れながらも彼等の傍を立たなかった。
「本当に、何時まで続くもんだかな? 煉瓦場。――早く止めてくれねえど、本当に困って了うな。桑畠は勿論だども、俺は何時までも鵞鳥が売れねえしさ。松代さんは嫁に行げねえしさ。」
「そんなごとより、俺家では、何時あそごの土地を売られっか、判んねえわ。」
「何処の家でだって同じごった。」
「併し、新平氏、今度はあ容易に廃《や》めねって話だで。」
彼等は、ふざけながらも、真面目に語り合うのだった。
*
煉瓦工場はこれで最早三度目だった。最初は奥羽本線敷設の当時に、鉄板製の低い煙突を幾本も立てて、七年間に亘って黒い煙を流したのだった。そして何町歩かの、最良質の田圃の底が、赤い煉瓦に変えられた。仕事の続いている間、部落の女達は「ぺたぺた敲き」の日傭に出た。職工が煉瓦の型に固めあげた粘土を、崩れないように陽で乾しながら、箆《へら》で敲き固めるのだった。煉瓦を縛る縄を綯《な》って売る者もあった。馬を持っている男達は駄賃に出た。工事列車の通る線路際まで煉瓦を運び出すのだった。――当時の部落の繁昌は、何時までも、彼等の思い出となった。彼等は自分の労力が、土地を通さず直ちに金銭になることを、初めて経験したからだった。そして竈の中に投げ込まれた何町歩かの田圃の底も、別して彼等の自給自足の生活を欠かさせなかったから。
第二期は、陸羽線敷設の当時、九年間に亘った。鉄板製の煙突の代りに、赤い煉瓦造りの大煙突が、遠くの遠くから敵視の目標となった。黒煙は煙突から直かに雲に続いた。そして煤煙の被害は遠方の部落にまで及んで行った。煉瓦を積んだ荷馬車が、何台も何台も、工事中の仮駅へ向けて行列をつくった。道路には幾本もの深い轍《わだち》が立って、九年の間、苗代のような泥濘が続いた。最良質の田圃は片端から掘荒されて行った。質のいい米を結ぶ田圃の底からでなければ最上質の煉瓦は出来ないからだった。併し、耕地が減って行くのに、其処から投げ出された小作人達は、代りの職業が容易に見つからなかった。むしろ、絶対に! だった。第一期当時にあった煉瓦場の方の仕事「ぺたぺた敲き」や煉瓦運搬の駄賃や縄綯いなどは以前からの熟練した人々の手で沢山だったからである。そのために北海道の開墾地へ移住した者があった。部落の東北部を起伏しながら走っている丘の中腹に歯噛みつき、其処に桑園を拓いて、これまで副業にしていた養蚕を純然たる生業にした数家族があった。
第三期は、第二期九箇年の後に、一箇年を置いて始められた。
第一期第二期は何れも鉄道敷設の工事材料を目的に焼いたのだった。だから工事の完成と同時に竈は閉された。併し第三期の今度は、投資の目的で始めたのだった。同じような煉瓦造りの大煙突が三本になった。第一期第二期当時に完成された鉄道が、容易に運び去ってくれると云う点から、最早その土地の鉄道工事と云うような供給の対照を考慮に入れる必要は無かった。全国が供給の対照であった。粘土質の土地を手放す者さえあれば、何時まで続くかわからない事業だった。
二
地主の森山は鶏小屋から戻って来たところだった。そこへ権四郎爺が這入って来た。森山は縁側に座蒲団を出さして其処へ掛けさせた。今までに何度も持って来た権四郎爺の用件には、彼はどうしても応ずる気が無かったし、鶏小屋の方に残してある仕事が気になるので、早く帰って貰おうと思ったから。
「どうでがすね? 今年の雛鶏《ひよっこ》の成績《しいしき》は?……」
権四郎爺は※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》の話を持出した。先ず森山の機嫌を取って置く必要があったからだ。
「鶏《とり》にかけちゃ、この界隈にゃ、且那に及ぶ者はねえってごったから……」
「雛鶏だってなんだって、斯う松埃をぶっかけられちゃね。今年は、まるで骨折損でごわした。」
「旦那等ほだからって、鶏を飼ったのが、儲けになんねえでも、暇潰しになって運動になればいいんでごあすべから。」
斯う言って権四郎爺は、面白くもおかしくもないのに、顔中を皺だらけにして追従笑いをした。
「いや、そんな馬鹿なこと、絶対にござりせん。やっぱし成績のいい※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]をとりたいと思って努力してんのでがすから。」
森山は馬が驚いたときのように鼻穴を大きくして反駁した。併し権四郎は追従笑いを続けた。
「ほだって、且那等は、遊んでても食べて行かれんのでごおすもの。」
「併し、遊んでても食べられる者は、骨折損なことをしてた方がいいて理窟はがすめえ?」
森山は、世間の人達から、自分が素封家の道楽息子として育ち、その延長に過ぎない生活をしているように思われるのをひどく嫌がっていた。彼は積極的だった。それが何時も、真摯な考慮を基礎として出発し、積上げられているのだった。彼はそして非生産的なことを嫌った。主張としては、幾分消極的ではあるが、温情主義と見るべきだった。――だから彼は、父親の死と同時に地主の席を譲られると、真面目に農家の副業と云うことに就いて考えた。彼の家の小作人達が、小作米を自分の処へ持って来ると、後に残る米は一箇年間の飯米にも足りないほどで、買う物のために売る物の無いのに、ひどく困って居るのを気の毒に思ったからである。彼は養蚕を奨《すす》めて桑を植えさせた。それから養鶏を奨励した。そして彼は、彼の家の所有地を小作している小作人達のためにと、最早七八年もその実地研究を続けているのだ。――其処へ持って来て、権四郎爺の相談は、彼の明日を暗《やみ》にしようとするようなもので、成立する筈は無いのだった。
「旦那は、やっぱり、煉瓦場近くの土地ば売って了った方が、徳だと思ってんでごあすベ?」
権四郎爺は、今日も亦、話を斯んな風に何時ものところへ持って行った。
「徳にも損にも、あそこだけは、どんなことがあっても売るわけに行かねえのでがす。あそこを売るど、差当り、四軒の家の人達が食うに困んのでがすからね。」
「旦那は直ぐそう云うげっとも、売って了めえば、野郎共は又その時ゃその時でなんとかしますべで。今までだって、うんと例があんのでごおすし、心配することはごおせん。」
「それゃあ、私があそこを売ったからって、食わずに死ぬようなごとはがすめえがね。併し、皆んながああして、田圃ばかりじゃ足りなくて、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を飼ったり養蚕をしたりして、一生懸命になって稼いでいでそんでも困ってのでがすからね。」
森山は心の中で固く拳を握っていた。
*
路の両側から蛙の声が地を揺がしていた。煉瓦を焼く煙は、仄赤く、夜の空を焦していた。
権四郎爺は、二間道路の路幅一っぱいに、右斜めに歩いては左斜めに歩き、左斜めに歩いては右斜めに歩き、蹌踉《よろめ》きながら蛇行した。河北煉瓦製造会社の社長の家で、酒を呑まされて来てはいたが、別段酔っているのでは無かった。近頃彼が夜歩きをすると、部落の青年達がよく彼に突当って来るので、それを防ぐためだった。蛇行していれば、何方《どっち》から出て来て突当ろうとしても、何等自分の威厳を傷つけられた風に見せずに、身をかわして了えるからだっだ。
「ふむ! おかしくてさ。馬鹿野郎共め!」
吐き出すようにして、権四郎爺は、何度も何度も言った。それで権四郎爺は幾分か自分の不安な気持を慰められたのであった。
「馬鹿野郎共め! おかしくて仕様ねえ。栗原権四郎はな、これでも……」
其とき、誰かが、どんと右肩に突当った。
「おっとっとっとっと危ねえ! 誰だね?」
「気をつけやがれ! 老耄《おいぼれ》め! なんて真似をして歩きやがるんだ?」
相手は闇の中から若い声を鋭く投げつけた。
「誰だね? 宮前屋敷の者かね? 夜路はお互に気をつけるごったな。俺は栗原権四郎だが、おめえ、宮前屋敷の誰だね?」
「貴様の名前なんか聞き度くねえや。老耄め! ほんでも俺様の名前を聞きてえんなら教えるべ。俺は宮前屋敷の藤原平吾様だ。今夜だけは許してやるから今から気をつけろ。棺箱さ片足踏込んでやがる癖に、何んの用があって煉瓦場さなど行きやがるんだ。老耄め!」
「まあまあ、夜路はお互に気をつけで……」
権四郎爺はそう言って逃げ出した。
併し権四郎爺は其処から五六十間も歩き去ると、そのまま黙ってはいなかった。
「馬鹿野郎! 平吾の馬鹿野郎め! 法律はな、そう無闇にゃ、許さねえぞ。善良な人民の交通を妨害しやがって、それで法律が許して置くか? 馬鹿野郎共め!」
権四郎爺は散々に平吾を罵倒した。最早人家の多い宮前部落の、駐在所の近くまで来ているので、彼は気が大きくな
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