か?」
兄の鶴治が拳固を突出した。
「兄《あん》つぁんの銭は、酒呑んだ銭だから嫌《や》んだ。」
「ううんだ。そら、見ろ! 銀貨だから。」
鶴治は狡るそうに眼を丸くして、拳を開いて見せた。亀吉は手早く、鶴治の掌の中に光っているものを引浚った。
「嫌んだ! この銭は、皮が剥げるもの。」
「ほだべさ。その銭は、※[#「くさかんむり/嘛のつくり」、第4水準2−86−74]疹《はしか》になってんのだもの。亀だって、※[#「くさかんむり/嘛のつくり」、第4水準2−86−74]疹になったどき、身体中の皮が剥げだべ? ほして癒ったベ? この銭も、蟇口《がまぐち》さ入れて置けば、遣うどきまでに、ちゃんと癒ってんのだ。」
「嘘だから嫌んだあ! お母あ、銭けろ。」
亀吉は強請りながら、銅貨の上に被せてあるバットの銀紙を、少しずつ剥取った。
「汝等《にしら》が、姉さ餞別出来るようなら、姉は何も親の側から離れねえでもいいのだ。」
母親は小豆鍋を掻廻しながら言っていた。
竈の下を焚きながら、黙り続けて焔先《ひさき》を視つめていた父親の捨吉は、だんだん瞼が熱くなって来た。そして大粒の涙が一つ、するするっと頬の上へ転がり出した。
*
膳が並べられ出すと、息詰るような涙ぐましい気持で、捨吉爺はもう堪らなくなって来た。同時に、お房に対して、父親としての申訳を言わずには居られなかった。
「お房! 汝《にし》あ、恨むんなら、煉瓦場を恨めよ。なあ。森山の且那が悪いのでも、俺等が悪いのでもねえ、煉瓦場が悪いのだから。」
「俺は、誰のどこも恨まねえもの。」
お房は膳の前に坐りながら言った。
「煉瓦場は、冬休みがとっても長くて、いいもんだな。」
「この野郎は、そんなごとばかり。」
鶴治は小学校の尋常一年生で、二週間の冬休みがあった。それに較べると煉瓦場の仕事の出来ない期間は全く長かった。
「冬休みなんか、なんぼ長くたって、糞の役にもなんねえ。夏休みが長げえのならだげっとも……」
捨吉爺は、笑いながら、併し怒ったようにして言った。
「森山の且那等、何もかも判っているようだげっとも、物事を考えるのに、深く突詰めるってごとねえんだもの。ほだからのことさ。」
「お房や。小豆餅ばかりでなんなら、納豆餅でなりなんなり、どっさり食って行くんだ。東京さなど行ったら、餅などはあ、たんと銭でも出さねえと、喰《か》れめえから……」
「俺は、何んにも食いたくねえも。」
「何も、先が暗いからって、おっかねえごとなんかねえだ。渡る世間に鬼は居ねってがら。」
「併し考えで見ると、森山の旦那が、あそこの土地を売らながったのだって、ああして困ってのだって、俺等を乾干《ひぼし》にしめえど思ってのごとなんだがらな。それを考えると、此方でだって、ああして困ってんのを見れば、全然小作米をやらねえじゃ置げねえがらな。お房には気の毒だげっども。」
「斯んなごとになんのなら、あそこを売ればよがったんだね。自分だけでも助かったのにさ。」
「売って、その金を此方さ廻してくれれば、問題は無かったのさ。それを森山の旦那は、他の地主等、土地を売払って小作人を困らせでるがら、自分だけは、意地でも売らねえって気になったのさ。ふんでも、皆んながああして売った処さ、自分だけ頑張って、島のように残して置いたって、何になんべさ。頑張るのなら、皆んなで頑張らなくちゃ。」
「ほだからって、恨みってえことは言われしめえ。殺すようなごとしてまで取立てる世の中なんだもの。」
「誰も、恨みごとなんか言わねえ。ふむ。旦那が気の毒だと思ってのごった。」
鬱屈した気持の向け場に困っていた捨吉爺は、唇を尖らして、錆のある太い声で不機嫌に言った。
*
朝の一番の汽車に間に合うのには急がねばならなかった。併しお房は、何事も手に着かないらしかった。微かに身体を顫わしてばかりいた。荷物のことは、父親の捨吉と母親とで皆んな支度をしてやらねばならなかった。
「お房! お房! お房や!」
斯う呼びながら、其処へ、腰抜け同様になって長い間床に就いているお婆さんが、襤褸《ぼろ》を曳摺って奥の部屋から這出して来た。
「お房や! 行く前に、俺にも一目顔を見せで行ってくれろ。俺は、再度《にど》と汝とは会われめえから……」
お婆さんはもう泣いていた。泣きながら、何か手にしていた襤褸で涙を拭った。
「可哀相に、遠くさやらねえで、森山の且那のどこさ、金をやる代りに、働きにやるってようなごと出来ねえのがえ? 東京だなんて、そんな遠くさ行って了ったら、俺は生きているうちに、再度と会われめえで……」
「婆《ばば》さん! 丈夫になっていろな。五年や六年位は、直《すんぐ》に経って了うもの。そのうちに、鶴だの亀らが大きくなったら、俺家もよくなんべから。」
お房はそう言いながら涙に咽せて来た。
「これは、お房や、汝が嫁に行くとき、半襟の一本もと思って蔵《しま》ってだのだけとも、俺は汝に再度と会うべと思われねえから、汽車の中で飴でも買って食ってくれろ。」
お婆さんは上り框まで這って来て、お房の腕に顔を押付けたりしながら、手にしていた襤褸をお房の手に握らせた。その中には幾らかの銅貨が包まれているらしかった。
「婆さん! いいから、いいから。婆さんこそ何か買って食ったら?」
辞退してもお婆さんはきかなかった。
お房はそれを貰って、涙を拭いながら、父親に送られて戸外に出た。荷物を背負った父親は、お房を先に立てて、雪の中へどふどふと這入って行った。門口の柊《ひいらぎ》の株を右に曲って、二人の姿が見えなくなると、母親は、わあっ! と声を立てて泣き出した。
五
雪が消えると、荒れ錆れた赭土の窪地の中に、黒土の一帯が再び島のように浮き出した。黒土地帯の中央には、直ぐに掘抜井戸の、高い櫓が組まれた。春先の西風は、唸って、それに突当って行った。併し櫓の上では、長い丸竹の機条竿が、幾日も幾日もぎちぎちと動いた。
「どうだね? まだ水脈さ掘付けねえがね?」
森山は斯う言って、毎日幾度も訊きに来るのだった。一日中其処から離れないことが度度だった。自分で櫓へ上って、がちゃがちゃと、居ても立ってもいられないと云うようにして鑿竿《せんかん》を動かしたりした。
「なんだって此処は水が出ねえんだかな?」
森山は最早常軌を逸していた。水! 水! 水! 彼の全身は渇き切っていた。彼の将来にかけた明るい希望は、黒い乾燥地帯に圧付けられていた。そしてその黒くからからに乾燥した地帯が、彼の意識の全部を埋め尽そうとしているのだ。彼の心臓までも侵そうとしているのだった。
「そろそろ、今に出ますべで。出ねえわけねえんですから。」
井戸掘の人夫達も、それより、もう慰める言葉が無かった。
「あんなに一生懸命なのに、それで水が出ねえなんて、一体、法律が許して置くか置かねえが、権四郎爺に訊いて見べえかな?」
斯んなことを言って、森山が帰って行くと、井戸掘人夫達は笑った。森山に対する気の毒な気持を掻消すためだった。
併しその掘抜井戸からは、田圃の耕作が始まっても、水はとうとう出なかった。
「旦那! どうもこれじゃ出そうもごわせんな。一つ、水揚水車を拵えちゃどうでごわす? 窪地に、一っぺい水があんのでごわすから。」
「どうしても出ねえかね? どんなことをしても? 出ねえければ、それゃ、水揚げ水車でもなんでも拵えるより仕方がねえがね。娘を売ってまで小作料を持って来られちゃ、どんなことをしてだって水をあげてやらねえと……」
森山はそう言って、全く力を落として了ったように、其処へべったりと腰を据えた。
*
粘質壌土の田圃の一部が掘崩されて、其処に小さな水揚げ水車が拵えられた。それは人間の足で踏んで水を揚げるように出来ていた。
森山はその水揚げ水車に上って、雨の日でないかぎり、毎日毎日がちゃがちゃとそれを踏んだ。濁りを帯びた溜水は、鬱屈していた動物のように、どくどくと溝の中へ流れ込んで行った。それを見て、森山は、にやにやと、顔中に嬉しそうな笑いの皺を刻むのだった。
「旦那! 少し俺等もやんべかね?」
新平等が斯う言っても、森山は肯《き》かなかった。
「なあに、運動のつもりでやってんのだから。」
併し森山は、炎天が続くと、夜も寝ずにその水車を踏み続けなければならなかった。そして、焼付けるような炎天の下で居眠りをしながら水車を踏んでいることがあった。煉瓦工場からの煤煙が、その上から、ひっきりなしに降った。白い肌襦袢へ、黒い羽虫のように一つとまり二つとまり、夕方までには灰色になるのだった。
「おっ! 森山の且那はどうしたべ?」
或る激しい炎天の日の午後、田の草を取っていた平吾が、そう言って立った。
「今の先っきまで踏んでだっけがな。ほんとに?」
「居眠《ねぶかき》して、水さ落ちたんであんめえかな?」
平吾等は、田圃から上って、水揚げ水車のところへ駈けて行った。
*
森山が、疲労と睡眠不足との身体を炎暑に煎りつけられて、日射病系の急性|霍乱《かくらん》で死んでから、そこの小作人達は、代る代るに水揚げ水車を踏んだ。
併し、その翌年からは、誰もそれを踏むものが無かった。例え小作料を計算に入れないにしても、そんなことをして収穫したのでは、とても合わないからだった。都会の大工場が機械の力で拵えた沢山の物を生活に必要としている彼等が、それを買うために、そんな手数のかかる耕作をしてはいられないのだった。だから、そこは畠にするより仕方が無かった。
黒い地帯は、併し、松埃が葉にこびりつくので、桑畠にもならなかった。仕方がなく、その一部が野菜畠にされた。全部野菜を作っても、それを捌《さば》く途が無いからだった。そして秋から、麦を作ることなどが話されていた。其処にそのまま残されてあった水揚げ水車は、毎日毎日松埃を浴びて、白木造りだったのが、真黒になって突立っていた。
[#地から1字上げ]――一九二九・一二・三――
底本:「日本プロレタリア文学集・11 「文芸戦線」作家集(二)」新日本出版社
1985(昭和60)年12月25日初版
1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「黒い地帯」新潮社
初出:「新潮」
1930(昭和5)年1月号
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2002年3月12日公開
2005年12月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング