栗の花の咲くころ
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暗欝《あんうつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一栗の嘉三郎|旦那《だんな》じゃねえかね?

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りながら
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     一

 暗欝《あんうつ》な空が低く垂れていて家の中はどことなく薄暗かった。父親の嘉三郎《かさぶろう》は鏡と剃刀《かみそり》とをもって縁側《えんがわ》へ出て行った。併し、縁側にも、暗い空の影が動いていて、植え込みの緑が板敷《いたじき》の上一面に溶けているのであった。
「それでも幾らか縁側の方がよさそうだで。」
 嘉三郎はそう呟くように言いながら、板敷へ直《じ》かに尻を据《す》えて、すぐ頬の無精髭《ぶしょうひげ》を剃りにかかった。
「お父《とっ》さん! 序《ついで》に、鼻の下の方も、剃ってしまいなせえよ。」
 障子《しょうじ》の中から母親の松代がそう声をかけた。
「余計な口出しをするな!」
 嘉三郎は怒鳴るようにして言い返した。
「余計なことであるもんですかよ。いくら髭に税金がかからねえからって、何も、世間の物笑いにまでされて……」
「笑いたい奴には笑わして置けばいいじゃねえか。俺には俺の考えがあるんだ。俺の気持ちが部落の奴等になどわかるもんか。」
「お父さんがその気だから、美津《みつ》なんかだって、家にいられねえんだよね。そりゃあ、美津は、お嬢さんで育ったかも知んねえけど、今は現在《いま》なんだから、どこへだって嫁にやってしまいばよかったんですよ。それを、お父さんたら、昔のことばかり言って、美津や嘉津が(お嬢さんお嬢さんて!)言われていた時の気で髭ばかり捻《ひね》っているもんだから、結局、誰ももらい手が無くなってしまったんでねえかね。」
「馬鹿っ! 貧乏はしても嘉三郎だぞ! そこえらの水呑《みずのみ》百姓と縁組《えんぐみ》が出来ると思うのか! 痩せても枯れても庄屋の家だぞ。考えても見ろ! 何百人という人間を髭を捻《ひね》り稔り顎《あご》で使って来てる大請負師《おおうけおいし》だぞ。何は無くっても家柄《いえがら》ってものだけは残っているんだ。」

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