取り上げられた積もりで、開墾した人にやると言ったじゃないですか? 何も私等だって、あなたからもらわなくたって、あれだけの難儀をして開墾する積もりなら、いくらでももらわれたんです。ただ、手続きの面倒が省けるから、あなたが、自分の力で開墾が出来なくて、取り上げられてしまう土地をもらっただけじゃないですか。」
「その手続きがね、なかなか金のかかる……」
「手続きに使った金ぐらい出しますよ。併し、小作料なら、一粒だって、一銭だって出せません。あなたが現在使用している土地だって、私達が開墾したからこそ、あなたのものになったんだ。あなたは、それだけの広い土地を自分のものにしただけでも、よすぎるくらいじゃないですか。あなたの、名義でもらったから、あなたの所有地にはなっていても、開墾して耕地にしなかったら、あなたのものにだってならなかったじゃないですか。道庁でだって、開墾したものにくれる意志なんだし……」
「いいです。いいです。私が慾を出したから悪いので、皆さんに差し上げますから、幾らにでも、気の向く値段で権利を買い取って下さいな。」
藤沢はそう言ってまた媚笑いをした。
「金のある時にね。併し、権利は早く私等の方へ移してほしいですね。当然のことなんだから。」
「いいですとも。いいですとも。そんなこと明日にでも。」
言いながら、藤沢は、岡本吾亮のために、長い間の計画が崩されて行くのを感じた。
*
開墾場の小屋を一通り廻り終わると、藤沢は落ち葉を踏み付けて事務所へ戻った。彼は窓際のテーブルに対《むか》った。そして彼はすぐに算盤《そろばん》を弾《はじ》くのだった。――いよいよ取り立てることになると、段当たり七十銭の小作料としても、七百五十町歩だから [#ここから横組み]750×7[#ここで横組み終わり] が五千二百五十円。それから農具の貸し付けが十九軒だから [#ここから横組み]19×5[#ここで横組み終わり] が九十五円。そのほかに、食糧として貸し付けた方から……。
突然、硝子窓の彼方《むこう》に固い兵隊靴の足音がした。藤沢は算盤に手を置いたまま足音の方へ視線をむけた。半分ほど開いている硝子窓の彼方《むこう》を、誰かが此方《こちら》へむけて活溌に歩いて来た。右上がりの広い肩。眼深に冠《かぶ》った羅紗《らしゃ》の頭巾《ずきん》。宵闇《よいやみ》の中に黒い口髯《くちひげ》が判然《はっきり》と浮かんで来た。
岡本吾亮だ! 藤沢はガンと眩暈《めまい》を感じた。彼は立ち上がりながらテーブルの横に手を伸ばした。臆病な胸が急に騒ぎ出した。彼奴《きゃつ》のために、また滅茶苦茶にされてしまう! 藤沢はテーブルの横から取り上げた猟銃をすぐ動悸の激しい胸に構えた。そして銃口を窓から突き出した。
「おい!馬鹿なことを止《よ》せ!」
吾亮は右腕を顔に当てながら叫んだ。同時に鉄砲の音が響いた。吾亮は蹌踉《よろ》めいてばたりと倒れた。
藤沢は部屋の隅から毛皮の外套を取って出て行った。彼は震える手で、微かに動いている吾亮に毛皮の外套を着せた。そして彼は溜め息を吐《つ》いた。併し彼の全身の戦《おのの》きは止《や》まなかった。彼は部屋の中に戻って火箸を持って出て行った。胸の傷口のところへ、外套にも穴を拵《こしら》えるためだった。彼が火箸を叢《くさむら》の中に抛《ほお》ったとき、銃砲の音で一人の作男がそこへ寄って来た。
「おい! 駐在所へ行って来てくれ。早くだ。駐在所へ行って巡査を呼んで来てくれ。大急ぎだぞ!」
藤沢は無我夢中で叫んだ。若者は声に追い立てられてすぐに駈け出した。そこへ佐平が来た。
「あ、困ったことをしてしまった。大変なことをしてしまったよ。あ、あ……」
藤沢はこう言いながら溜め息を吐《つ》いていた。
「どうしたのかね? 鉄砲の音がしたっけ。」
佐平はそう言って屈《かが》み込んだ。
「あっ! 吾亮さんじゃねえか?」
叫んで佐平は跳《と》び退《の》いた。そして藤沢の顔を、穴のあくほど視詰めた。
「なあにね、岡本さんは、私の居ねえところから、私のこの毛皮の外套を着て出たらしいんですよ。私はまたそれに気がつかなかったもんでね。ちょうど、私はまたその時、今年もそろそろ熊の出る時分だなあ、なんて考えていたんですよ。そこへ岡本さんがこの毛皮を着て来たもんで……とにかく、大変なことをしてしまった。あ、あ……」
藤沢は溜め息を続けた。佐平は、藤沢のその話の中から、将来に向けた秘密な計画を読み取ることが出来た。佐平は、だが、巡査の来るまでは、何も言うべきではないと、黙り続けていた。
巡査の来るまでには大分時間があった。そのうちに、四辺《あたり》の小屋から、一人寄り二人集まり、がやがやと吾亮の屍《しかばね》を取り巻いた。やがて焚き火が始められた。そこから一番遠い地点にある吾亮の家には、知らせずにおく筈だったのだが、いつの間にか嗅ぎつけて妻が出て来た。伜《せがれ》の雄吾はその頃、敏感な少年期に達していたのだが、そこへは駈け出して来なかった。沈着な彼の母が、その場を見せないために、近所へ預けたのだった。そして吾亮の妻は、人々の背後の薄暗がりで、静かに泣いていた。
「東京からここまで来て、こんなことになるなんて……私達はこの先どうしたらいいんですか……子供だってまだ働けやしないのに……」
こう言って雄吾の母は啜《すす》り泣くのだった。
「岡本の奥さん。その方の心配はしないで下さい。私に責任があるんですから。その方の心配はしないで下さい。私が責任を負うんですから。」
併し彼女の心が、そんなことで穏やかになる筈がなかった。穏和な情緒を滅茶苦茶に掻き立てられた彼女は、何もかも掻《か》き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りたい興奮状態にあった。彼女はなおも泣き続けた。
巡査が来た時には夜が闌《ふ》けていた。焚き火の傍《そば》に立って巡査は藤沢を訊問した。藤沢は、佐平に言ったと同じ理由を述べた。
「それでこの人は、おまえとは、おまえの外套を無断で借り着して行くような間柄だったのか?」
「はい。それは、十何年前からの友達で。」
「すると、全然、過失というわけだな?」
「でも、私は、罰を受けないと気が済みません。」
こういう言葉が交わきれている間に、佐平は、啜り泣いている吾亮の妻の方へ歩み寄った。
「家を出るとき、あの毛皮を着てたかね?」
低声《こごえ》にそう言って佐平は訊いてみた。
「今日は、朝出たきりでしたので……」
彼女は少しも藤沢を疑わなかった。彼の表面をそのまま受け取っているのだった。佐平は巡査のところへ引き返した。
「何《なん》にせ、熊だか人間だか、見分けのつかねえほど、まだ暗くなかったがな。」
佐平はこう彼等の会話の中に言葉を挿んだ。
「おい! おまえは黙っていろ。今ここで、いいかげんな嘘をつかれちゃ困るじゃないか。」
巡査は佐平の方に眼を光らせて言った。
「いや、いや、すっかり暗くなってからで……」
「宜し。じゃ、とにかく、今夜のうちに駐在所まで来て、本署まで一緒に行ってもらわねばならんな。この外套《がいとう》を背負《しょ》って。」
「旦那様、私を証人に連れて行ってくだせえ。」
佐平はこう言って滅多《めった》に下げたことの無い頭を下げて頼んだ。自分の見透している藤沢の秘密な計畫を、みんな話してやる積《つ》もりだった。
「証人だと? おまえを証人に立てたら、どんな嘘を言うかわからんじゃないか。嘘つきの名人を、証人に立てるわけにはいかんな。」
「じゃ誰か他の人でも……」
「自首して出た者に証人がいるか。そんなことは後のことだ。――さあ、じゃ、その毛皮を背負って。」
巡査は藤沢を促してそこを立ち去った。
*
藤沢の罪科は過失致死罪だった。罰金刑で済んだ。そして吾亮の遺族である雄吾とその母とは藤沢の許《もと》に引き取られた。
「いいえ、そうまでして頂かなくも、私は東京へ帰ります。東京へ帰ったら、なんとかして食べて行けないことは無いでしょうから。」
こう吾亮の妻は言った。併し藤沢は、その以前から五六人の作男を使って自分も耕作をやっていたので、その人達のための炊事をしたり、自分の身辺の世話をしてくれる婦人を必要としていた。今までは開墾小屋から、百姓女が通って来てくれていたが、吾亮の妻にその役をしてほしいと言うのだった。
「そうでもしてもらわないと、私も気が済みませんからね。給金は、今までの倍にしますわ。」
藤沢が無理にそう言うので、雄吾を伴れて彼の母は、開墾小屋から事務所に移って行った。同時に藤沢は札幌へ引き上げて行った。彼女は啜り泣きの日の多い侘《わび》しい冬を送った。
翌年の春。藤沢は例年よりも早く開墾地に出て来た。そしてその夏中を、雄吾の母は、藤沢と一緒に事務所で寝起きをしなければならなかった。もちろん雄吾も一緒ではあったが、五六人の作男は、以前から他の建物に寝起きをしているのだった。
藤沢は、その年はどういうものか、ひどく躁《はしゃ》いでいた。何事にも活溌だった。秋になると、貸し付けてあった食糧費をぴしぴしと取り立てた。そして、今年からはいよいよ小作料をも取り立てると提言して、それの実行に取り掛かった。
「小作料をね? この土地は、開墾すれば頂戴できる筈じゃなかったんですかね。」
佐平はこう呆《あき》れた者の調子で言った。
「冗談じゃねえ。この土地だって資本金《もとで》が掛かってんですぜ。」
「じゃ、道庁から直接もらって開墾するんだったな。今頃は自分のものになってたのに……」
こう佐平は言って見たが、それは既に遅い気の付きようだった。
藤沢は二夏を雄吾の母とその事務所で暮らしたのであったが、初雪が来て、その年もいよいよ札幌へ引き上げるとなると、彼は彼女を伴れて帰って行ったのだった。――それから後の噂は、藤沢は最近に妻を亡《な》くし、ちょうど子供が無かったので、彼女を後妻に入れたのだと伝えた。
雄吾はその翌年の夏から作男の仲間に投げ込まれた。そして、藤沢の活溌な行動は加速度をもって進んだ。小作料の取り立ては厳しく実行された。貸し付けてあった開墾中の費用の取り立てにも彼は決して手を緩めなかった。どこの移住開墾者よりも貧しい一団の移住開墾者等は、暗い陰惨な日々の中で、子供が殖《ふ》えるばかりだった。
その頃、開墾地には美しい娘が三人いた。お糸。おせん。千代枝。その三人は次から次と五年の間にいずれも同じようにして札幌へ伴《つ》れて行かれた。――最初、彼女達は畑から事務所へと、炊事婦に傭われて行った。給金が頗《すこぶ》るよかった。彼女一人の働きによって、その一家は十分に潤《うるお》された。事務所で食べさせてもらった上に、小作料と、借りた開墾費用を払っても、彼女の給金はなおいくらか残るのだった。だからその貧しい親達は、娘が可哀想だとは思いながらも、表面には不服な顔を見せなかった。――併し、彼女達を目の前に愛することによって、その開墾地の生活に明るい華やかな生甲斐《いきがい》を見出していた若者達は、それでは鎮《しずま》らなかった。彼等は開墾地を飛び出して行った。そして、お糸の相手だった耕吉は、浦幌の近くの小さな駅の駅夫をしている。おせんの相手の平六は池田へ行って馬車曳きになっている。佐平等が、自分達は食うや食わずに働いているのに収穫はみんな持って行かれると考えるように、若者達は、美しいものはみんな持って行かれて醜《みにく》いもの穢《きたな》いものばかりが残ると考えたのだった。
*
「意気地の無《ね》え野郎共さ。耕吉も平六も。あいつらに貴様ほどの度胸があったら、今頃はみんながこんな難儀をしなくて済んだのに……」
佐平爺は悠長に煙草を燻《くゆ》らしながら語り続けた。
「貴様はやはり、雄吾、親父に似ているんだなあ。その度胸のいいところは……」
「度胸じゃねえ。俺《おら》、我慢が出来ねえのだ。」
こう言って雄吾は、焚き火に屈《かが》み込んで枯れ枝を重ね直した。白い煙があが
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