は紅葉の錦を纏《まと》う。落葉樹が寒風に嘯《うそぶ》き早春の欅《けやき》の梢《こずえ》が緑の薄絹に掩《おお》われるのも、それは皆すべて植物の生理的必然の作用に他ならない。
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 併し、私達の詩的感情は、何が故にと、その植物固有の、所生や境遇や季節による生理的必然の作用としての生理的変化を探究しようとするのではない。私達はその科学的見地から離れて、それらとりどりの植物が、いつの季節に、いかなる境遇において、最も強く私達の美的感覚に触れるかを、その所生の境遇と外囲の関係とにおいて、その植物固有の美的表示を知ろうとするだけである。
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 例えば、菌、苔《こけ》、藻草のような植物でも、その所生の境遇と外囲の関係とによって初めて私達の詩的感覚を打つのである。樅《もみ》、落葉松《からまつ》、栂《つが》などのように、深山に生ずる植物は、深山の風景に合わせて見なければ趣が少ない。柳、蓼《たで》、蘆《あし》などのように、水辺の植物は水に配合して眺めなければその植物の美的特徴を完全に受け取ることは不可能と言っていい。その他、丘陵、高山、原野、沼沢、砂地、海辺、田圃、河畔、庭園な
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