なのよ。兄さんのは、何かしら三味線の絃《いと》でも敲《たた》くような、短い汽笛よ」
「ほんとに判るのかなあ?」
「そりゃ判りますとも。お父さんなど、機関庫中の人のをみんな聞き分けるのよ。私だってお父さんのと兄さんのと、それからお父さんの助手をしていた青木さんのと、三人の汽笛を聞き分けられるわ。ほんとなのよ。兄さんが機関車に乗り初めのころには、家《うち》の前を通る時には汽笛をきっと鳴らすのよ。ああ兄さんの汽笛だって窓から顔を出して見ると、真っ黒な顔で得意そうに笑って行くのよ。それから青木さんの汽笛はとても優しいの。泣くような。訴えるような。お父さんは青木さんの汽笛が鳴ると、ああ青木が泣くから、発車の時間だ、なんて出掛けて行ったものだわ」
「そんなによく判るものなら、お父さんは、僕達がここに来ていることを知ったら、ここを通るときには、汽笛を鳴らさないだろうな。あんなに怒つたのだから」
「さあ? 案外そうでないかもしれないわ。どんなに怒ってみたところで親子は親子ですもの、もう今ごろは、直ぐ許してくれるかもしれないわ。私、手紙を出してみようかしら。ここにいるからここを通るときには、汽笛だけでも鳴らしてくださいって。今ごろは、私達のことをきっと心配しているのよ」
「でも、随分と頑固だからな」
「表面では怒ったような顔をしていても、きっと心配しているんだわ。私達だって、心の中では可愛いんだわ」
 秋子の眼は濡れて光って来た。

 秋子が父親の吉川機関手に手紙を書いて以来、上り下り二回の直通列車が、汽笛を鳴らさずにその駅を通過することがたびたびだった。鳴らして通る汽笛は、短い打ち切るような性急な音間の抜けた余韻を持たぬ音。波間に浮き沈むような抑揚の激しい長い音。あの野獣の吼えるような唸《うな》るような余韻を持った音ではなかった。
 病勢が加速度を持ち出して秋子は床《とこ》に就《つ》いたきりだった。そして彼女は、列車の通るたびごとに自分の耳が兎の耳のように長くなるように感ずるのだった。失望から失望の連続だった。その事がまた病勢を強めるのだった。
「こんなことになるのなら、いっそのこと、手紙を出さなければよかったのだわ。私の方でだけでも、お父さんの汽笛を聞いていられたのに……」
 彼女は眼を潤《うる》ませてその言葉を繰り返した。弱い苦しそうな声で、そして力のない咳《せき》をした。貞吉も同意見らしく何も言わなかった。
「いや、こっちへ来ないんだろう。僕の考えでは、むしろ喜んでいて、今に汽笛を鳴らして通ると思うな。和睦《わぼく》の汽笛を」
 傍からいつもこう言うのは信号係の西村だけだった。西村は秋子を慰めようとするのだった。
「汽笛どころか、今に会いに来るよ。怒るときには怒っても、親じゃないか」
「私、逢《あ》いに来てくれなくてもいいから、許してだけくれるといいんだわ。私だって、親から許された柴田の妻で死にたいわ。許した証拠に、汽笛だけでも鳴らしてくれると……」
 彼女は、そうして湧《わ》き出る涙を拭《ふ》く力さえも失っていた。黒い幕は目前に近付いている気がするのだった。
「死んで行く者を、許してくれたっていいと思うわ。今になって、私の方で、折れるわけにはいかないじゃないの」
 秋子は恨みがましく呟《つぶや》くのだった。貞吉は無言で傍から彼女の涙を拭《ぬぐ》ってやるのだった。

 遠方信号が赤だった。吉川機関手は眼をむいて拡大鏡から前方を見詰めた。そして、レギレーターを戻した。もし信号機に故障があれば、暗闇の信号所で青い提燈《カンテラ》を振り回すはずだ。
 列車は遠方信号に接近した。機関手はブレーキに手をかけた。そして汽笛の紐《ひも》を引いた。野獣の吼えるように、唸るように、余韻を引いて汽笛は高らかに響き渡った。
 信号が青に変わった。機関手は舌敲《したう》ちをしてレギレーターを入れた。列車は轟然《ごうぜん》と突き進んだ。と、また場内信号が赤かった。吉川機関手は周章《あわて》てレギレーターを戻しブレーキを入れた。そしてもう一度汽笛の紐を引いた。機関車は高らかに吼えた。唸るような余韻を引いて。が、もうブレーキでは間に合わなかった。列車は官舎の横まで来ていた。場内信号はすでに眼の前だった。吉川機関手は腰を上げて、リバース・シングルバース・ハンドルを引き倒した。列車は逆戻りをする前にまず速度を失った。
 場内信号が青に変わった。吉川機関手はもう一度汽笛を鳴らしてから、リバーース・シングルバース・ハンドルを戻してレギレーターを入れねばならなかった。
「おい! ねぼけていちゃ駄目だよ」
 信号所の横を通りながら吉川機関手は叫んだ。錆《さび》のある優しい声で。そして彼は急速力で走り出した機関車の窓から顔を出して場内を見返った。潤み霞《かす》んだ眼には停車場の赤
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