や青の燈火が水に映《うつ》る影のように暈《ぼや》けて揺れていた。
秋子の呼吸からは音を聞くことができなくなった。秋子の生命《いのち》の余白を彼女の呼吸で計ろうとする貞吉は急に不安を感じ出した。彼は感覚の全部を耳に集めて彼女の顔を見詰めるのだった。微《かす》かにも動かなかった。
見詰め続けていると彼女の顔は彫刻的な感じから絵画的なものに変わって行った。汚れた木炭紙の蒼白《あおじろ》さだ。もはやその眉や髪さえが貞吉には色彩としての働きを持つだけであった。
汽笛が鳴った。遠方信号のあたりで、野獣のように吼え、唸るように余韻を引いた。
秋子は瞬《まばた》きをした。そして大きく眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。彼は彼女の顔から遠ざかってなおも彼女の顔を見詰めた。彼女の眼の表情は汽笛の余韻を辿《たど》っていた。
汽笛! 彼等の窓に震動を投げながら高らかに吼えた。犬の唸るような余韻が、どこかに反響した。
「あら! お父さんだわよ!」
秋子は白い敷布の上から窓へと転《ころ》げて行った。貞吉は驚異の眼を彼女に向けて※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
「お父さん? お父さん!」
開かれた窓から首をだして彼女は叫んだ。眼の前に長い窓の行列が燈影を撒《ま》き散らしながら静かに走っていた。
「お父さん!」
喜悦《きえつ》に満ちた力いっぱいの震《ふる》えを帯びた声だ。
汽笛だ! 三度目を吼えた機関車は、唸るような余韻を別れの挨拶のように引いたのだった。
「あなた! あなた!」
秋子は貞吉の胸に飛び付いた。彼は彼女を固く抱擁した。彼女の眼は濡れてぎらぎらと光っていた。
「おい! 秋ちゃん!」
彼は彼女の身体に重さを感じて叫んだ。彼は素早く、彼女を白い敷布の上に戻した。しかしもはや彼女の脈は絶えていた。興奮状態からの微かな体温を残して。
機関車が過ぎ客車が掠《かす》めて行った。明るい窓の行列。機関車のビストンの音は客車の軌条を噛《か》む音に掻《か》き消された。
西村は信号所の窓から首を出して寂しく微笑した。
「おい! ねぼけていちゃ駄目だぜ」
優しい錆のある声が列車の轟音の消えた中にいつまでも残っていた。
西村は時間の経つにつれて次第に寂しくなって行った。彼の意識の中に築きかけられた美しいものが、吉川機関手の一言《ひとこと》で崩されてしまったのだった。あの優しい声は確かに彼の秘密を覗《み》破っているようだった。彼は同時に、秋子が、完全に柴田貞吉の妻であると意識を持つであろうことにも、ある一種の寂しさを感じた。
彼は固く自分の胸を抱きしめた。寂しい気持ちの充満した胸をぎゅっと抱きしめた彼は、狭い信号所の中をがたがたと歩き回った。
底本:「見えない機関車」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年10月20日初版1刷
入力:奥本潔
校正:田尻幹二
1999年2月4日公開
2005年12月17日修正
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