岡さ寄れよ。俺《おら》、真っすぐに田さ行んから(父つぁんは田さ真っすぐに行ぎした)って……」
 春吉が背後《うしろ》から声をかけたが、菊枝は何も答えなかった。彼女の眼には、いっぱい涙が溜まっていた。
 本当に、豊作《とよさく》さんの言った通りだ! と菊枝は思った。「馬鹿らしくって、こんな田舎にゃあいられねえ。東京さ行って電車の車掌にでもなれば、まさかこんなに、牛馬のように使われねえだって。それにこうしてたんじゃ、いつ一緒になれるか判んねえし……」こう豊作が、今朝、田の水を見に来て、彼女に草刈りを手伝いながら言った言葉が、今、菊枝の心に再び判然と浮かびあがって来た。
 豊作の家も、菊枝の家と同じように、貧しい、小さな小作百姓だった。なまじっか小作百姓をしているおかげで、豊作も菊枝も、日傭《ひでま》を取りに行く日でさえも、短い夏の夜を、暗いうちに起きて、朝のうちに自分の家の仕事をして行かねばならなかった。
 豊作さんは、あんなに言ってくれるんだがら、一層のことあの人と一緒に東京さ行ってしまおう! 菊枝は手拭《てぬぐ》いの端を噛みしめながらこう呟《つぶや》いて、力なく歩いて行った。
 パラソ
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